第54話

「妻? じゃあこの人が――」と藤沢が呆気に取られていると、「私たちは彼の友人です」と言って麗子さんも頭を下げた。


「突然押しかけてしまい、申し訳ありません」


 この人が、父と一緒に出て行った女。藤沢はそう口にしかけたのかもしれない。間一髪でそれを喉の奥に追いやったようだが、さも怪しいものを見るような目つきで彼女を眺めていた。


 花瓶を両手に抱えるようにして立つ目の前の女性は、凛とした佇まいの人だった。芯の強い眼差しに加え、聡明な雰囲気を醸し出している。


「雪山で起きた遭難事故の話を聞いて、ここまでやってきました。父の容態はどのような状態なんでしょうか?」と僕は尋ねた。


 葉山小夜子は手に持った花瓶をベッドの脇に置くと、父の姿を愛おしそうに眺めた。花瓶にはふんわりとした白くて可憐な花が生けてあった。


「長い間ずっと、眠り続けています。事故の直後には何度か目を覚ましましたが、今ではすっかり。きっと、心労が祟ったのでしょう」


 心労……。それは遭難事故のことを言っているのだろうか。


 彼女が花を置く姿や屈む様子には、どこか洗練された趣が感じられた。よくよく表情を観察すると、潤った肌には相当な苦労を思わせる抗いようのない深い皺が刻まれている。


「事故の後、家族の意向でこちらに転院されたと聞きました。良ければ、その経緯を教えてもらえませんか?」


 父の顔を見下ろしていた彼女はおもむろにこちらへ向き直り、視線を僕に向けた。


「立ち話も失礼ですので、お時間が宜しければうちへお越し頂けませんか? ここから歩いてすぐの所にございます」と、彼女は改まった声で言った。


「それに、夫の以前のご家族とは一度お話をしたいと思っておりました」


 僕らは順に顔を見合わせ、互いに小さく頷くと葉山小夜子の提案に乗ることにした。


 彼女が話した通り、病院を出て数分歩いたところに彼女の住まいはあった。そこは磯の香りが漂う木造家屋で、夏場でも風通しが良く過ごしやすい構造をしていた。


 玄関には父のものらしき靴のほかに子供用の靴が並んでいる。戦隊もののイラストがプリントされた派手な配色のランニングシューズから、恐らく男の子だろうと推測できた。


 玄関を上がるとすぐ右手にキッチンがあり、それを横目に通り抜けた先の居間に僕らは通された。畳作りの居間には中央に焦げ茶色をした長方形のちゃぶ台が置いてある。


 僕と藤沢はちゃぶ台に向かって並んで腰掛け、僕らの後ろに座った麗子さんは縁側から庭を眺めている。


「すみません、これくらいしかお構いできませんで」と言いながら、彼女は縦長のグラスに入った氷入りの麦茶を運んできた。ほんのりと花の模様が入った夏らしいグラスだった。


 麗子さんはグラスや内観を眺めながら賛辞の言葉を述べ、藤沢もすかさず合いの手を入れて重苦しい空気を払拭するよう努めてくれた。


 葉山小夜子は姿勢よく正座したまま上品に相槌をうち、穏やかな表情で家族のことを簡潔に語ってくれた。


 彼女は現在四十四歳で、旧姓を島崎小夜子という。八歳になる息子がおり、パートで働きながら一人で面倒を見ているそうだ。この家は事故の後で通院のために借りたものらしい。


「夫とは籍を入れてから今年で十年になります。転院の経緯をお話する前にまずはこれまでの私たちについて、それに、以前のご家族についてのお話をした方が良いかと思います」と小夜子は言った。


「今の夫の状態とも、深く関係しておりますので」


「分かりました」と僕は答え、姿勢を正した。


 彼女は一度深呼吸をした後、父との出会いについて語りだした。


「私が夫に出会ったのは、今から十二年前になります。その年に以前のご家庭を飛び出したとも聞かされています」


「え? 一緒に出て行ったんじゃ――」と藤沢が早々に口を挟んだので、「しっ! 今は黙って聞いてなさい」と麗子さんが後ろから喝を入れた。


「すみません。続けてください」と僕は続きを促した。


「はい。その頃の私は、事務職員として働いておりました。そこへある日、彼が入社してきました」


「…………」


 藤沢と同様、僕も出鼻から驚かされていた。父は他に相手を作って家を出て行ったのではなかったのか?


「彼は仕事に対して非常に真面目な方でしたが、寡黙な方でもありました。仕事が終わるとすぐに帰宅し、自分のことも周囲にはあまり話したがりません。


 それでも根が優しい方でしたから、同僚たちもすぐに彼を受け入れ、個人的なことには触れずにおいてくれていました。


 ですが、彼が入社して一ヶ月ほど経ったある日のことです。その日は会社の行事飲み会で、誰かが飲ませ過ぎてしまったのか彼はひどくお酒が回っているようでした。


 頬も赤く染まり、ふらついた身体のまま私の隣で項垂れていました」


「夏目も飲むと赤くなるよな」と藤沢は茶化すように僕に言ったが、すぐに彼女の方へ向き直り、「あ、すいません。続けてください」と言って小さく会釈をした。


「はい。その時は酔って口を滑らせたのだと思いますが、項垂れた彼を介抱する私に向かい、家族には何も告げずに家を出てしまったことをあの人は告白しました。


 後日にこっそりその話を持ち出すと彼は大変驚いた様子を見せ、この事は内密にしてほしいと言われました。


 私はそのことを誰にも他言しないことを約束し、そのことをきっかけに、私にだけは以前の家庭について少しずつ話をしてくれるようになりました」


 そこまで話すと、小夜子は僕の顔をじっと見つめ、「あなたは、父親がどうして何も言わずに出ていくことになったのか、その理由をご存知ですか?」と問いかけた。


 僕は黙ったまま、左右に首を振って答えた。すると彼女はちゃぶ台の上に薄茶色の細長い封筒と、一枚の写真を並べた。


「これって……」と言いながら、麗子さんが後ろから写真を覗き込み、「家族写真ですか?」と藤沢が尋ねた。


 それは写真館で撮影したであろう古めかしい家族写真だった。若い夫婦の前には二人の幼い男の子が立ち並び、母親の胸には毛布に包まれた赤ん坊が抱かれている。


「これは、うちの家族写真ですか?」と僕が尋ねると、小夜子は口を噤んだまま小さく肯いた。


 封筒の中には、一通の古びた便箋が入っていた。


「それはあなたのお母様が結婚する直前に、夫へ向けて送った手紙だそうです」と彼女は教えてくれた。


「手紙?」


 僕は折れてすっかり変色した便箋を開き、手紙に目を通した。

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