第55話
――蓮介さんへ
すでに周知の事実かと思いますが、私は昔からこれでもかというほどの意地っ張りで、素直になれない事が多々あります。それはあなたの前であっても例外ではありません。
「ありがとう」や「ごめんなさい」といった言葉を伝えるのが本当に苦手です。愛想もなければ甘えるような仕草もできません。
「寂しい」という一言を伝える事すらできない、不器用な人間なのです。
些細な仕草や空気で伝わると思い込み、口には出さないところがあります。
それでは駄目だと頭では理解していますが、ついつい本音と異なる行動を取ってしまうことがあるのです。
これをきっと『甘え』というのでしょうね。
手紙ならば素直に伝えられるかと思い、筆をとりました。
あなたは誰にでも分け隔てなく接することが出来る人で、こんな私を好きだと言ってくださいました。
二人の子供ができたことをお話した際、迷わずプロポーズしてくださったことを私は今でも心から嬉しく思っています。
あなたのことを深く愛しております。今までも、これからもです。
いざ言葉にすると、やはり恥ずかしいものですね。でも、この際なので胸の内をきちんと明かすことにします。
あなたに出会い、共に青春時代を過ごせたこと。こうして婚約し、二人の子供まで授かった私はこの上ない幸せ者です。
生まれてくる子供にもあなたに対するものと同等の大きな愛情を持って接し、二人で肩を並べて育てていければと思います。
たとえ表情には上手く出せなくとも、私はあなたとこれから家庭を築けることを心から楽しみにしています。
不器用な私で、本当にごめんなさい。これからは夫婦として、末永くよろしくお願い致します。
「…………」
手紙を読み終えた僕は、顔を上げて小夜子の方を見た。すると彼女はこう続けた。
「以前のご家庭が崩壊の一途を辿りつつある時、引き出しの奥に仕舞っておいたこの手紙を読み返したことが、家を出るきっかけになったそうです」
「どうしてですか」
僕には分からない。もしこんな手紙を見たら、かえって見放すべきではないと思うはずなのに。
「当時の私も同じことを問いかけました。表面上は彼を突き放すような素振りを見せていても、出て行くべきではなかったのではないかとも。すると彼はこう答えてくれたんです」
『僕は忙しさのあまり、妻が心の内に蓄積させていく寂しさをすっかり見落としてしまった。
自分がもっと早く気づいていれば、こんな事にはならなかったはずだ』
「だったら! それこそ――」
僕が口を挟もうとするのを制止し、小夜子はさらに続けて、父の言葉を綴る。
『彼女にとって、僕はとうに失われた存在だった。もはや信頼を取り戻すことも叶わず、このままだとさらに彼女を苦しめてしまう。そう思った僕は、自分の存在を消し去ろうと決めた。
きっぱりと居なくなった方が、今後の彼女にとっては良いのかもしれない』
「そんなの……」
あまりに無責任ではないか。残された彼女がどう思うか、考えなかったのか。彼女にとっては自分しか頼れる相手がいなかったというのに。
「そのやり方が、本当に正しかったのかよ?」
そう呟いた藤沢は悔しそうな表情で俯き、ちゃぶ台を睨んでいる。
「でも、相当悩んだはずよ」
麗子さんは彼の肩に手を乗せながら、「後になって一番引きずってしまったのは、葉山さん自身だったわけだから」
「僕は、……知りませんでした」
知ろうともしていなかった。一人で勝手に決めつけ、思い込んで。
僕は母と全く同じことをしていた。目を逸らしていた。自分の存在のせいで今以上に相手を傷つけてしまうなら、いっそのこと何も言わずに姿を。
……まさか君も、同じ気持ちだったのか?
小夜子は澄んだ瞳で真っすぐに僕を見つめ、「その手紙と写真はあなたに差し上げます」と言った。
「今さらかもしれませんが、家族の方にお話ができて良かったと思います」
手紙を受け取った僕は目の前のグラスを手に取り、すっかり氷の溶けてしまった麦茶で渇いた喉を潤した。
改めて室内を見回すと棚にはいくつかトロフィーが並び、所々に家族写真が飾られていた。
そこには父の姿も写っており、隣に並んだ息子と共に穏やかな表情を浮かべている。ここでは父親らしく、息子と関われていたのだろうか。
「さて、事故の話でしたね」
未だ整理しきれない僕に向かい、小夜子は静かに言った。
「夫は六年前に突然、精神的な病に掛かりました」
「うちに診察に来た時期ね」と麗子さんは後ろから小声で僕に耳打ちした。
「病ってやっぱり幻覚ですか?」
藤沢が尋ねると、「すでにご存知のようですね」と彼女は答え、「そうです。初めは夫も病院へ行ったことを私に黙っていました」
「話しにくかったんでしょうね」と、麗子さんは相槌を打つように答えている。
「私に隠れてこっそり薬を服用しておりましたが、夫は上手く隠し事ができるような柄ではありません。私は見て見ぬ振りをしつつ、そっと様子を伺っていました。
そのうちにあの人は、どこか一点を見つめたり、時おり焦点の合わない目つきをするようになりました」
「病の原因は何なんでしょうか?」
僕が尋ねると、小夜子は「そうですね」と呟いた後、「夫があなたのお母様に数年間仕送りをしていたことはご存知ですか?」と言った。
「はい」
「そのことも、夫は私に一切話しておりません」
「えっ?」
小夜子はゆっくりと頷き、「きっと後ろめたさを感じていたのでしょう」と言った。
「口には出さずとも、心の中では一人苦しみ続けていた。だからあのような病に掛かってしまったのかもしれません。事故のあとで病院を転院したのもそのことが原因です」
「何があったんですか?」
僕がそう言うと小夜子は無言で立ち上がり、「新しいものを淹れてきますね」と言ってキッチンで新しい麦茶を入れてきた。
改めて座り直した彼女は、事故直後のことについて語ってくれた。
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