第56話

「夫は救急隊に運ばれて治療を受けました。身体が冷え切っていた以外には表立った問題も見当たらず、じきに目を覚ますだろうと担当医はおっしゃいました。


 予想した通り夫は数日後に目を覚まし、私の顔を見ると安堵の表情を浮かべたのでひと安心を致しましたが、少しの間私がその場を離れた時のことでした。


 用事を済ませて病室に戻ると、あの人は驚くほどに青ざめた表情でどこか一点を見つめていました。


 身体を震わせ、『魂を吸い取られる』と唸り続けていました。それに加え、『ドッペルゲンガー』という言葉を呟きました」


「またかよ」と藤沢は眉間に皺を寄せて呟き、「やっぱり、間違いなく葉山さんには何かが見えていたのね」と麗子さんが言った。


「ほどなくして夫は気を失いました。その時の状況を担当医に説明するとすぐに精神科の先生を紹介され、その方にも同じように説明を致しましたが、夫にはすでに通院経験がありましたので事故のショックからそれらの兆候が一時的に強まったのではないかという診断を下されました。


 そちらの先生の紹介もあり、私は夫がより治療に専念できるあの病院へ移ることにしました」


「どうして周囲に黙って転院を?」


 僕が尋ねると、彼女はほんの少し俯き、「すぐに戻ってくるつもりでした」と答えた。


「夫はあの街が気に入っておりましたし、そのため周囲には病気であることを悟られまいと、こっそり引っ越しをしました。


 今思えば、誰かに相談をしておくべきでしたね。余計に心配をかけてまったようです」


「精神病だしね。あんまり良い印象は持ってもらえないよ」と麗子さんが気持ちを察したように答えた。


「ですが転院後も夫は回復の兆しが見られず、やがて目が虚ろになり、とうとう口も利かなくなってしまいました。


 先生方も様々な治療法を試してくれましたが効果はなく、今ではあのような状態にまで衰弱しきっております」


 視線を落とした小夜子の表情は徐々に曇り始めていたが、再び僕らの方へ向き直ると、彼女は強い意思を持って語り続けた。


「ある時から私は、夫が口にしていた『ドッペルゲンガー』というものについて調べ始めました」


「一体何なんですか、ドッペルゲンガーってやつは?」と藤沢は前のめりになって尋ねた。


 小夜子は一度小さく咳払いをすると僕の方を見遣り、「『ドッペルゲンガーとは、その人物の寿命が尽きる寸前の証であり、見た者はいずれショック死するか、あるいは精神を病み、徐々に体調を崩した末に必ず死を迎えることでしょう』と、今まで調べた内容を引用するように答えた。


「死? 必ずって……」


 横目に見える藤沢は呆然とした表情を浮かべ、拳を握っている。


「私はどうにかして夫を救い出す方法はないかと必死で探しましたが、この病そのものが都市伝説のような扱いをされており、具体的な治療法は一切見つかりませんでした」


「そんな……」


 麗子さんは僕の背後で声を震わせていた。


「懸命に尽くしていれば、いつの日か必ず正気に戻ってくれると思いこれまで看病を続けてきました。


 ですが、もう六年です。もしかしたらと思う瞬間も次第に増え始めて……。先生からは安楽死の選択肢も考えるように言われております。私も日に日に弱り果てる夫の姿を見ているのは、正直に言ってつらい……」


 小夜子は潤んだ瞳を僕らに向け、「妻として、決断しなければならない時期が迫っているのかもしれません」と言った。


 口元を固く結び、決して涙は流すまいと目を開いている。


「決断……」と僕は呟き、ゆっくり目を閉じた。


 ようやく辿り着いた先に待っていたのは、ただの回送列車だった。


 行き場のない気持ちを漂わせ、何一つ接点を持たないまま、とっくの昔に終わりを迎えていた。


 彼女が用いた『決断』という言葉。それは僕らを通して父に、そして彼女自身に語りかけられたメッセージのように思えた。自ら導き出した決意を示すように――。


 僕もまた、一つのけじめをつけるためにここまでやって来た。


 それはまだ、終わっちゃいない。


「今晩だけ、父の病室に泊まることは可能ですか?」


 僕がそう言うと、小夜子は驚いたように目を見開いたが、「でしたら、病院には私の方からご連絡を差し上げましょう」と答えた。


「夫も、息子さんが訪ねて来られて喜んでいると思います」


「じゃあ俺も!」


「私も!」


 藤沢と麗子さんは、ほぼ同時に手を上げていた。けれど僕はそれに対し、ゆっくりと首を横に振って応えた。


「今回だけは、僕一人で向き合ってみたいんだ。長い間先延ばしにしたのは、僕も同じだから」


 しばしの間、二人は複雑な表情を浮かべていた。やがて麗子さんは一度短いため息を漏らすと、「蛍くんと葉山さんのこと、最後まで見届けようと思ったのにな」と諦めたように言った。


「まぁ、結局は夏目の問題だしな」


 続けて答えた藤沢は顔に皺を寄せて笑い、「明日の朝には迎えに行くから、一緒に帰ろうぜ」と言った。


「ありがとう」


「よろしければ、お二人は今夜はここに泊まってください」と小夜子は二人に向けて言った。


「えっ? いいんすか?」


「えぇ。何のお構いもできませんが」と小夜子が言うと、「いえいえ、そんな!」と麗子さんは手を振り、「じゃあ、お言葉に甘えさせていただきますね」と笑みを浮かべていた。

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