第51話
「悲運?」と僕が言うと、河本さんはハンカチを握り締めたままこちらを見つめ、「落石です」と静かに答えた。
「我々にとっては、まさしく悲運だったかと思います」
「落石かぁ」
あまり実感の湧いてこない様子の麗子さんを横目に、僕はその光景を想像していた。悲運と言うからには、相当な規模の落石だったのだろうか。
「どのくらいの規模ですか?」と、藤沢が早速尋ねている。
「大したものではありません。結果的にはぽつりぽつりと岩が転がった程度で、じっとしていればそのうちに止みました」
「なーんだ」と藤沢は答えたが、僕は疑問に思った。それだけで、悲運?
「今のような夏場でしたら、浮石の落下音で早めに落石だと判断することができましたが、あの時期は浮石のバウンド音も降り積もった雪に吸収されてしまい、直前まで気づくことができませんでした。
それに加えて悪天候ということもあり、我々はかなりの体力を消耗しておりました。足場を確保することに必死で、周りを警戒する余裕もなかったのです」
「でも、無事だったんですよね?」
僕が問いかけると、河本さんはじっと押し黙り、「気づいた時には、落石が始まっていました」と続けて話し始めた。
「すぐに反応したのが蓮介さんです。皆に注意を呼びかけ、その場でじっとするよう指示を出しました。私は落石が転がる様子を垣間見たものの、確かにそれはよくよく観察すると、我々から少し離れたところを転がっておりました。
言われた通りその場に屈んで待機しておりましたが、気づけば後方に移動していた駒井が落石に衝突してしまい、大きな叫び声を聞いた私たちはようやくそれに気づきました」
「何で動いちゃうかな」と小声で呟きながら、藤沢は顔を歪めている。
「足から大量の血が滴り、彼は立つこともままならない状態でした。みるみる顔面蒼白になり、今にも意識を失いかけていました」
「うへぇ……」と吐き出すように言葉を漏らした麗子さんは、まるで自分の足を怪我したように悲痛な表情を浮かべている。
「とにかく処置を施そうと、私たちは急いでその場から離れて開けた場所にテントを張りました。
激痛により気絶してしまった駒井をテントの奥に寝かせ、残りの三人で今後のことを話し合いました。
外では激しく雪が吹き荒れ、怪我人がいては皆で下山することも、そこから頂上付近のキャンプのを目指すことも不可能でした。
テントで一晩やり過ごすのが得策ではありましたが、問題はもちろん駒井の容態でした」
「どういう容態だったんですか?」
僕が尋ねると、河本さんは険しい表情を浮かべ、「応急手当は施したもののなかなか血が止まらず、一刻も早く病院へ連れて行かなければならない危険な状態でした」と答えた。
「蓮介さんは彼を心配するあまり、一人で下山して助けを呼びに行くと言い出したんです」
「さすがは夏目パパだな」と藤沢が言うと、彼はまたも首を振り、「ですが、我々は必死でそれを止めました。悪天候の中を一人で下山するなど、非常に危険な行為ですので」
「あぁ、そうなんだ」と、藤沢は反省したように俯いている。
「そこで話し合った結果、最も登山経験の豊富な田崎が一人で下山する役を買って出たのです。
田崎は登山経験のみならず、この山について誰よりも詳しい人間でもありました。蓮介さんは仲間の危機で熱くなっており、冷静な判断を下せないとも彼は主張しました。
『自分ならば様子を見つつ、困難な場合はテントへ引き返す判断を下せる』とも。蓮介さんもしぶしぶそれに了承してくれました」
河本さんはそこでまたお茶を一口含み、長いため息をついた。それから気を取り直すように一度咳払いをすると、彼は続けて語りだした。
「私と蓮介さんは田崎を見送り出し、テントで待ち続けました。吹雪も強くなる一方で、蓮介さんはどこか落ち着かない様子でした。
次第に日が沈み、辺りは真っ暗闇になってしまいました。それでも、田崎は戻ってきません。我々は無事に下山したことを祈るばかりでした。
それから、蓮介さんは眠ってしまったのでしょう。顔は見えませんでしたが、規則的に肩が揺れていましたから。
私も寝てはいけないと思いつつ、疲労から意識が遠のき始めていましたが、突然飛び跳ねるように起き上がった蓮介さんは、ひどく怯えた表情を浮かべてどこか一点を見つめていらしたんです。
その時の彼は、こう呟きました。『ドッペルゲンガー……』と」
「ドッペルゲンガー!?」
麗子さんは大声を出しながらカウンターに身を乗り出し、「ほんとにそう言ったの?」と彼に言い寄った。
河本さんは身を竦ませながら、「えぇ、えぇ。確かにそう口にしました。この日のことは何度も何度も思い返しておりますので、間違いありません」
河本さんは再び咳払いをし、椅子の上で体勢を整えてからまた口を開いた。
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