第50話
「はいはい。何のご用でしょう?」
立ち上がってこちらへやってきた男性は丸顔で髪が薄く、意外にがっしりした体格をしていた。つなぎの胸の辺りには黄色い刺繍で”押切山管理組合”と縫い付けられている。
「実は、葉山蓮介という人を探してまして」と僕が言うと、隣で麗子さんが「この人です!」と言って写真を見せた。まるで刑事ドラマのワンシーンみたいだ。
「おやおや。……これは」
事務員は目を丸くして写真を受け取り、一度瞼を擦ってから食い入るように写真を見つめていた。
「何度かこの山を登山されたと耳にしたので、訪ねてきました。過去の登山記録を確認させて頂くことは可能ですか?」
僕の問いかけに対し、「えぇ。えぇ。それは構いませんですとも」と答えた男性はひと呼吸置くと、「ひとまずお座りになってください」と僕らを椅子に座るよう促して自分も向かい側の椅子に腰掛けた。
「いやぁ、それにしても驚いた! 久々に名前を耳にしたもので」
事務員は麗子さんに写真を返しつつ、「それであなた方は、蓮介さんとどういったお知り合いなのですかな?」と尋ねた。
「え、おじさん知ってるんですか?」
藤沢が男性の言葉に反応し、「その人は僕の父です」と僕もすかさず答えた。
「ひぇ、息子さん!?」
彼は僕の顔をまじまじと見つめながら唸り声を上げ、「蓮介さんの息子さんは確か、もっと幼子だったと思うんだけどもなぁ。本当にあんた、息子さん?」
「それはたぶん、再婚相手との間に出来た子だと思います」と僕は答えると、自分は離婚前の子供であることを簡潔に説明した。
「いやぁ、こりゃ驚いた!」
男性は再び目を丸くし、「蓮介さんにそんな過去があったなんてねぇ」とため息交じりに言った。
「ところであなたは、葉山さんとはどういったご関係で?」と麗子さんが彼に尋ねた。
「あぁ、失礼、失礼。ご挨拶が遅れまして」
男性は机の引き出しから名刺を取り出すと、「私はね、蓮介さんの友人で『
名刺を受け取った僕らがそれをじっと凝視していると、「蓮介さんとはよく一緒に山を登ったものです」と河本さんは付け加えるように言った。
「あぁ、登山仲間ですか」と藤沢が言うと、「えぇ。えぇ」と河本さんは童話に登場するくまさんのような温和な表情を浮かべながら、ハンカチで額の汗を拭っている。
「父が、大変お世話になっています」と僕はぎこちない表情でお礼の言葉を述べた。
すると河本さんは、「いやいや! お世話になったのはこちらの方ですよ」と手を振りながら答えた。
「蓮介さんには、山のこと以外にも色々と教わったもんです」
そう言うと彼はどこか遠い目をしながら、「あの事故の後から私も残念ながら所在は存じ上げませんが、どこかで元気に過ごされていればとずっと思っておりました」
「事故? 事故って何の話よ!」
麗子さんが突然身を乗り出してそう尋ねると、彼は勢いに気圧され、目を大きく見開いたまま後ろに仰け反った。
「おや、知らなかったのですか。事故のことを聞いてここにやって来たのかと思いましたよ」
河本さんは椅子の上で姿勢を正し、「蓮介さんはね、私たちと登山中に事故に遭ったんです。正確には事故に遭ったのは別の人間なんだけどもね。蓮介さんは皆を救おうと必死で尽力してくれた」
「別の人間? それってどういうこと?」と、藤沢は混乱したように首を傾げている。
「その話、詳しく聞かせてもらっても良いですか?」と僕が言うと、河本さんは席からゆっくり立ち上がり、「えぇ。えぇ。ちょっと待っていてくださいね。今お茶を淹れますから」と笑顔で応え、奥の給湯室で湯を沸かし始めた。
「何か、ややこしいことになってきたわね」
「徐々に犯人を追い詰めていく感じか」
「誰が犯人だよ」と僕が藤沢に向けて言うと、「冗談だって」と答えながら、彼はまたロダンのようなポーズを取り始めた。
お茶の準備ができると、河本さんは湯のみを四つと和菓子をお盆に乗せて戻ってきた。
「どうぞ。お召し上がりください。これくらいしかお構いできませんけれども」
「ありがとうございます」
四人はひとまず揃ってお茶を飲んだ。僕の隣に座る麗子さんは早速菓子の袋を開けて食べ始めると、「あらっ、美味しい」と言って口元に手を遣っている。
「それでは、事故についてお話をさせていただきます。説明があまり得意ではないので、長くなってしまうやもしれません」
河本さんはそう前置きすると、一度大きく息を吸い込み、ゆったりとした口調で語り始めた。
「今から五年前の冬のことです。蓮介さんには私のほかにも二人の登山仲間がおりまして、四人で押切山を登る計画を立てておりました。
蓮介さんは登山に慣れた方でしたが、彼よりもさらにベテランの方が一人おりまして、名前を『田崎』といいます。私と残りの一人、名前は『駒井』と言いますが、我々は比較的経験の浅い者でした」
「押切山は登山の経験が浅い人でも登れる山なんですか?」
僕が尋ねると河本さんは規則的に二回頷き、「えぇ。えぇ。経験者の付き添いがあれば、それほど難易度の高い山ではないでしょう」と答えた。
「私も何度か他の山には登ったことがありましたし、蓮介さんと田崎は上級者でしたので」
「そうですか」
父がそれほど経験豊かな登山家であることを、僕は今まで知らなかった。河本さんはお茶を一口含むと、ゆっくり続きを話し始めた。
「我々は早朝から登山口に集合し、押切山を登り始めました。その日は前日の雪で気温が低く、寒い日ではありましたが晴れ晴れとしていて、登山には持ってこいの気候でした。
序盤から我々は快調に登り進み、あっという間に五合目まで辿り着くことができました。そこまでは誰もが意気揚々といった様子で、みなさん笑顔が溢れていましたが、経験の浅い駒井が途中から急激に体調を崩し始めたのです」
「高山病とか?」と藤沢が呟くと、彼は首を振り、「それほど大層なものではありませんでしたが、ひどく呼吸を荒げていましてね、そのため私たちはペースを落として進まざるを得なくなりました」と答えた。
「予定よりも到達点が大幅に遅れ、そうこうするうち、天候が荒れ模様になり始めました。山の天気は非常に移ろいやすいもので、しばらくすると強風が吹き、とうとう雪まで降り始める次第でした」
「雪の中で登山とか危なそう」と呟きながら、麗子さんは茶菓子を口にしていた。
「それでも経験豊富な二人が補助をしてくれたおかげで、緩やかなペースではあるものの、確実に前へ進むことはできました。
ですが、八合目を越えたところで私たちに悲運が襲いかかりました」
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