第49話
「葉山さんが入院してから、たぶん五日ほど経った頃かな。その日は私が当直で、零時から仮眠を取った後、翌朝患者さんに配る薬を準備してたの」
「へぇ、夜勤って大変ですね」と藤沢が言うと、「うん、まぁもう慣れたけど」と答えた彼女は一度咳払いを挟み、「そしたらナースコールが鳴ってね、それは葉山さんの部屋からだったの」と言った。
「それまでの数日間は何事もなく過ごされていて、夜中に呼ばれることなんてない安定した患者さんだったから、どうしたのかなと思って私はすぐに病室へ向かったの。
病室についてドアを開けると、ベッドの上に身体を起こした葉山さんは強ばった表情で震えながら、どこか一点を見つめていた。入口の方じゃなくて、ベッドから起き上がった正面の方ね」と、彼女は空中を指差して言った。
僕らは揃って彼女の指差す方向に視線を遣りながら、当時の病室を想像していた。静まり返った室内はカーテンが僅かに開き、月明かりが差し込んでいたのだという。
「私もつられて視線を向けてみたけど、特に何も見当たらなかった。『あぁ、これが幻覚なのか』ってその時思ったの。葉山さんにはきっと、私には見えない何かが見えてるんだって。
震えてるみたいだったからひとまず落ち着かせようと、私はベッドに近寄って行ったわ。そしたらあの人、小さな声でこう呟いたの。『ドッペルゲンガー』って」
「ドッペルゲンガー……?」
間の抜けた声でそう言うと、藤沢は首を傾げ、「自分とそっくりな奴を見るとか、そんなやつですよね?」と尋ねた。
「そうそう。でもね、私にはそんなの全然見えなかった。とにかくその時の私は葉山さんの様子が心配で、慌てて電気をつけて彼に呼びかけたわ。『正気に戻さないといけない!』って思った。
何度か呼びかけると、葉山さんは気づいたように私の顔を見た。しばらくは放心状態だったけど、ふっと生気が戻ったように私と目が合うと慌てて肩を掴んで、『このことは院長には話さないでくれ!』って言ったのよ」
「ずっと黙ったままでいたんですか?」と僕が尋ねると、「まさか! そりゃ報告したよ」と彼女は答えた。
「患者さんの要望も大切だけど、そんな状況を黙ってるなんて私にはできないもん」
「まぁ、そりゃそうだ」と藤沢も頷いている。
「次の日先生に話したら、早速葉山さんに事実確認をしたみたい。でも本人は全然覚えがないって答えたらしいの。
私が先生に報告したことも特に怒ってないみたいだったし、むしろ忘れちゃったんじゃないかって思うくらい次の日からは何の症状も現れなかった。
それから五日後にあの人は退院することになって、次の予約日から突然来なくなっちゃったってわけ」
「ほんとにドッペルゲンガーって言ったんですかね?」と、藤沢はロダンのようなポーズを取りながら尋ねている。
「言ったよ! あの人がすごい震えてたのもはっきり覚えてるもん」と勢いよく答えた彼女は突然俯き始め、「……でもね、患者さんが覚えてないって言うのに、必要以上に噂が広まって入院中の居心地が悪くなるのも良くないって話になって、先生と私はそのことを誰にも口外しなかったの」
「なるほど」
藤沢は相槌を打ち、「その日以外は全然普通だったんですよね?」と尋ねた。
「そうね。だから余計に覚えてるのかも。ちょっと不気味だったし」
「そりゃ怖いですよ」
「…………」
ドッペルゲンガー。僕もそれについては、『自分の姿そっくりをした分身』という程度の浅い知識しかない。
父はその夜のことをなぜ医師に相談しなかったのか。仮にその夜が初めての経験だったなら、それこそ彼は困惑して誰かに話したはずだろう。
少なくとも幻覚を見たのは二回目以降で、一度目に見た後、もしかすると巻島の元へ診療に訪れたのかもしれない。
「どうして麗子さんに口止めを頼んだんでしょうか?」
僕は最初に思った疑問を彼女に投げかけた。
すると彼女はため息をつき、「きっと退院を長引かせたくなかったのよ」と答えた。
「家族を養わないといけないし、不利な診断をされて働けなくなったらそれこそ困るじゃない?」
「でもそれじゃ、診察に来た意味ないですよね?」と藤沢は言った後、「まぁ、気持ちは分かりますけど」と俯いて呟いた。
「そうねぇ」と答えた彼女は、手に持ったビールの缶を静かに藤沢のものに当てると、勢いよくそれを飲み干した。
「元気に過ごしていると良いけど」
それからは気を取り直したように彼女が他愛もない話を繰り広げると、三人で笑い合いながら夜の時間を過ごした。
散々騒いで麗子さんが部屋に戻ると、僕らは宴会の後始末をして順番にシャワーを浴びた。
「今日は早いとこ寝るか。俺こっち使っていい?」と言いながら、藤沢はベッドの壁側を指差した。
僕は友人と一つの布団で眠ることに少なからず抵抗があったものの、ベッドが巨大なうえに二人ともひどく疲れていたので、横になってすぐにわりとどうでも良くなった。
暗闇の中で目を閉じると、未だ乗り物に揺られているような錯覚がしていた。思いのほか硬い枕にも困惑したが、慣れてくるとこれもありかも知れないと思ったところで、ようやく睡魔が襲ってきた。
「――おい、夏目! 見てみろよ!」
感覚としては、目を閉じて数分といったところだ。朦朧とする意識のなか、藤沢の小煩い声が脳内に響いてくる。
『……何だよ。まだ眠いのに』と思いながらしぶしぶ目を開くと、眩しい光が瞳に突き刺さり、僕は再び目を閉じた。
「駄目だ。目が開かない病気かも」と僕が言うと、「いや、今一回開けてたろ」と呆れたように答えた藤沢は肩を揺すり、「良いからお前も見てみろよ。あれが押切山じゃない?」
「えっ?」
僕は文字通り跳ね起きると、眼鏡を掛けて窓際の方へ移動した。昨晩は暗くて辺りに何があるのか全く見えなかったが、今では目の前に広がる景色をはっきりと見渡すことができる。
朝の陽光を受けて輝く山々の中には、押切山らしき姿も見られた。それは麗子さんから事前に説明を受けた通り、先端が鋭く尖った形をしている。
周辺にある他の山々に比べ、ひときわ強烈な存在感を放つその姿を思わずカメラで収めると、僕らは準備を整えて部屋を後にした。
「おはよっ」
エレベーターを降りると、すでにチェックアウトを済ませた麗子さんは缶コーヒーを片手にサングラス姿で受付近くの長椅子に腰かけていた。
僕らもチェックアウトを済ますと三人で車に乗り込み、山へ向かう前にガソリンスタンドで給油を済ませてから近くの喫茶店で朝食をとった。
案内板に従って車を走らせていると、遠目に見えていた押切山が徐々に近づいてきている。
山の麓まで車で向かうと、登山路へ続く入口付近に”押切山管理組合”と書かれた事務所があった。
「へぇ。組合ってわりに、奇抜なデザインだな」
藤沢がそう話す通り、目の前に建つ木造のコテージは派手な赤い色の尖った屋根をして、近辺の建物に比べると異様に目立っていた。押切山をイメージして作られたのだろうか。
車を駐車して管理組合の建物に入ると、内装こそ木のぬくもりを感じさせる板張りの床や丸太の壁などで造られているものの、インテリアは都会の役所と何ら変わりのない地味なものばかりだった。
スチール製の机、引き戸書庫、それにメッシュ張りの事務椅子。よく不動産で見られるような長いカウンターがあり、その向こう側には事務用のスペースが設けられている。
紺色のつなぎを着た中年男性はこちらに背中を向けたまま、紙の書類に何かを記載していた。
「ごめんくださーい」と麗子さんが言うと、男性は肩をぴくりとさせてこちらを振り向いた。
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