第48話
山道を抜けると住宅街が広がり、目的の住所に辿り着いた。
僕は呼び鈴を押してみたが、扉の向こうから姿を現したのは見知らぬ少女だった。
この住宅には数年前から少女の家族が住み始めているらしく、僕は在宅中の母親を呼んでもらうと怪しまれないようにきちんと前置きをし、(病院関係者の麗子さんがいたため、特に不審がられるようなことはなかった)父のことを尋ねてみたが一切関わりはないようだった。
ここで得られる情報はないと判断した僕らは、次に父がよく登ったという押切山へ向かうことにした。
「ここから遠いですか?」と僕が尋ねると、「まぁ、もうひと山越える感じかな」と麗子さんはあっさりした調子で答えた。
住宅街を抜け、県道をさらに進むと山道に入り、辺りには民家の姿もなくなった。
すでに日が傾き始めているなか、僕らはうねうねとした道路を曲がったり登ったりしながら、まるで迷い込んだ子兎のように森の中を彷徨っていた。
「ずいぶん来ましたね」
後部座席から身を乗り出した藤沢は麗子さんを見ながら、「やっぱり、運転変わります?」と尋ねた。
「ううん、大丈夫。そろそろ見えてくるはずなんだけど」と平然とした顔で答えながら、彼女はタフな走りを続けている。
やがて道路沿いにはぽつりぽつりと民家や商店が現れ始めたが、すでに日は沈み、辺りは真っ暗になっていた。
通り過ぎる際に辛うじて見えたブルーの道路標識には『押切山』という名称がようやく記載され、ここからの距離が表示されていた。
「まだ結構あるなぁ」と標識を発見した藤沢が言うと、「今日はこの辺りが限界かしらね」と麗子さんは答えた。
三人で話し合った結果、山へ向かうのは明日にすることにして、僕らは車を走らせながら宿泊施設を探し始めた。
「あっ! あれは?」
藤沢が指差した方角にはテキサスのハイウェイにでも立っていそうな背の高い看板があり、『ザ・タウン・ホテル』と表記された文字が派手な電飾になっている。
名前からホテルであることは確かなようだが、一見してバーガーショップと見間違えそうなデザインはあまり趣味の良いものとは呼びづらいものがあった。
「ダサいな」
「うーん。まぁ、前衛的かしらね」
僕らにはもはや選ぶほどのこだわりも体力も残っていなかったので、全会一致でそこに泊まることに決まった。
車を停めて受付に向かうと、白髪頭の老人がカウンターの向こうで新聞を読み耽っていた。
色黒で鼻がやけに高く、頭に被った赤いキャップにはアルファベットで『S』というロゴが入っている。
老人は僕たちに気づくと新聞を畳み、大袈裟に笑顔を作った。両手を広げて歓迎の意を示す彼の顔は、長年の作り笑いによって刻み込まれた深い皺でいっぱいになっていた。
「いラッしゃいませ! 二名サマですか?」
独特のイントネーションで話す老人に向かい代表して麗子さんが空室について尋ねると、ちょうど二部屋だけ空きがあると教えてくれた。
僕らは順にチェックインの手続きを済ませ、明日の出発時間を決めると二階にあるそれぞれの部屋に入った。
「うわ、予想以上の狭さ……」
部屋に入るなり藤沢はげっそりした声でそう呟いた。後に続いた僕は入口付近で靴を脱ぎながら、部屋を眺めた。
扉を入ってすぐ右隣の引き戸を開けるとそこには洗面所、浴室、トイレが同じ空間にまとまっており、入口から壁に沿って数歩進むと五畳ほどの空間が広がっていた。
巨大なベッドが一つ置いてあるが、それが室内の面積の大部分を占め、あとはベッドの周りを辛うじて通れるくらいの幅と、窓際に設置されたカウンター棚のみだった。
棚の上には気持ちばかりのアメニティーが並べられ、下には据え置きの小さな冷蔵庫が見える。
壁掛け式の液晶テレビはあるものの、ベッドでくつろいで見るにはどう考えてもおかしな角度に取り付けられていた。
「この狭いのに、でかい椅子置いてんのな」
藤沢はベッドの向こう側にある椅子を見ながらそう言うと、角の方にそれを移動した。こう見るとサイドテーブル代わりに見えなくもない。
荷物を置いた僕はひとまずベッドに腰掛けたが、朝から長時間乗り物に乗ったせいか腰の辺りが凝り固まっているのを感じた。
ベッドカバーは目がチカチカする派手な柄をしていて、見つめていると妙に頭が回った。
念入りに室内を物色している藤沢は、冷蔵庫を開いてサービスのミネラルウォーターを発見していた。
「飲むか?」
「うん」
僕らは交代で喉を潤し、しばらくは黙ってベッドに座り込んだ。思いのほか疲労しているのが、いざ腰を下ろすと実感できる。
藤沢が窓を開けて煙草を吹かし始めたので、僕はカメラに収めた写真を確認して過ごした。
今日撮影した写真以外にもすでに少量のデータが記録されているのは知っていたが、僕はあの日からずっとそれを見ることを避けてきた。
いざ確認すると、そこには美しい風景写真が何枚もあり、見慣れた駅前の風景や紫陽花の上を這うカタツムリの写真も見られた。二人で歩いた砂浜や、あの海の写真も。
「…………」
彼女は今頃赤いビートルに乗って、名前も知らないどこか遠くの地を転々としているのだろうか。
それとも、平穏に暮らせる場所をもう見つけたかもしれない。
出来ることなら、僕もいつか彼女が暮らす街を訪れてみたいと思った。その土地の景色をカメラで撮って回りたい。きっと、美しいもので溢れているはずだから。
「なぁ、この辺ってコンビニとかあるかな?」
考え事をしていた僕は、藤沢の言葉で唐突に現実へと引き戻された。
「あぁ、……どうだろ。どうして?」
「だって腹減ったろ」
「あぁ。そうだね」
うわの空で返事をする僕に対し、「おい、どうした?」と藤沢はゆっくり顔を覗き込んだが、そこへちょうど扉をノックする音が聞こえてきた。
立ち上がった彼が扉を開けると、そこにはコンビニ袋を下げた麗子さんの姿があった。
「お二人さん、お酒は飲める? おつまみも色々と買っちゃった」
「おぉ、さすが姉御!」と言って藤沢は彼女を部屋の中に招き入れた。
僕はカメラをカウンターに置くと、「ありがとうございます」と言って笑顔を見せた。
藤沢は奥に移動した椅子をそそくさと運び出すと、麗子さんに座るよう促している。
彼女は椅子に腰かけると目を細めてベッドの方を指差し、「こっちの部屋もそれなのね」と言って呆れたように肩を竦めている。どうやらベッドカバーの柄がお気に召さないようだ。
僕ら二人は並んでベッドに座り、三人でそれぞれ缶ビールを片手に乾杯をした。
藤沢と麗子さんがぺらぺらとお喋りを始め、受付の老人を話題に挙げたり、コンビニの店員がいやに不愛想だったことを語りながらしばらくは過ごしていたが、彼女は二本目に突入した辺りで僕の父について語り始めた。
「実はね、葉山さんのことで二人にはまだ話してないことがあるの」と、彼女は少し改まった様子で言った。
「おすすめの登山靴とかですか?」
藤沢が気軽に尋ねると、彼女は小さく唸り声を上げ、「病院でも話すかどうか実は迷ってたんだけど、人探しに必要な情報とも思えなかったし、あまりに現実味のない内容だから」と言った後で僕の顔を見つめた。
「でもね、あなたには話しておいた方が良いような気がしてきたの」
「聞かせてもらえますか?」
「いいわっ」と答えると、麗子さんは開けたてのビールをぐいっと一口流し込んだ。
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