第47話
「ストレスが溜まった時はどうするんですか? 同僚の方と気晴らしに何かするとか?」
僕がそう尋ねると、麗子さんは眉間に皺を寄せ、「同僚? それはないかな」と吐き捨てるように答えた。
「うちの病院の人なんて、みんな隙さえあれば仕事をサボる人ばっかりだもん。そのくせシフトが出た時にはさ、連勤は嫌だの勤務時間が長いだのって文句ばっかり言うんだから」
「あ、それ分かります! 文句が多い奴に限って、仕事量が反比例する傾向にあるんすよ!」
藤沢はまるで特定の誰かを思い出すように声を上げた。
「そうそう」と頷きながら、彼女は煙草の煙を勢いよく吐き出し、「別に権利を主張するのは勝手だけど、もう少しちゃんと仕事してから言ってほしいよね」と言った。
「ナースステーションの仕事も私がいないとすぐ溜まっちゃうし。何も言わずにてきぱきやってる私が馬鹿みたいに思えてくるわよ」
「じゃあどうして、その仕事を続けてるの?」
僕は純粋に聞きたかった。嫌なのにどうして逃げないのか。どうして耐えていられるのか。
僕の問い掛けに対し、麗子さんは珍しく黙り込んだ。唐突に大人しくなった彼女の横顔を眺めるとひどく疲れた表情をしているものの、目元には何者にも負けまいと必死で抗おうとする力が漲っている。
前方の景色を眺めながら、彼女は脳裏に戦いの日々を思い返しているように思えた。
「何でだろうね。たぶんシンプルに言うと、馬鹿なのかも」
「馬鹿?」と僕が首を傾げると、彼女は口元に薄っすらと笑みを浮かべ、「結局は自分を正当化したくて、誰かに努力を認められたくて、何でも良いから褒めてもらいたいのかもね」と言った。
「六年もこの仕事を続けてきたけど、誇れることなんて何もないし、誰も見ていないのはとっくに分かってるんだけど、それでも治った患者さんから稀に感謝の手紙とかを貰うとね、つい嬉しくなっちゃって、また頑張ろうって思う自分がいる。――ほんと馬鹿だよね」
そう言うと彼女は、煙草を灰皿に突っ込んだ。窓の外を見上げると、雲梯の列が終わろうとしている。僕が最後まで渡りきった時の祖母の表情は、どんな風だったろう。
「この人たちの曲聴いてるとね、何だか色々とどうでも良く思えてくるの」
前を向いたまま彼女がそう言うと、「分かります」と静かに答えた藤沢は顎の辺りに手を遣り、「投げ遣り……とは全然ニュアンスが違ってて、何だかシャワーを浴びた後みたいな気分っていうか、嵐みたいに通り過ぎながら不純物だけを濾過してくれるような感覚っていうか。あれ、違います?」と不安げに尋ねた。
「あなた……」
驚いたようにバックミラーを眺めた彼女は、「意外と話せるじゃない!」と後ろに座る藤沢に向かって返した。
「いや、意外ってちょっと失礼な気が」と藤沢は答えたが、二人は意気投合してすぐに打ち解けていた。
僕は初めて彼女を見た瞬間から、どこか彼に似通った点があるように感じていた。
大勢の輪の中で常に他人と接し、神経を擦り減らし、心身が疲れ果ててもなお、それでも目を逸らさずに足掻き続けているからこそ、二人はこれほどまで気丈に振舞っていられるのかもしれない。
「ミッシェルと言えば、やっぱギターでしょ」
「何言ってんの。――顔よ」
「え、麗子さんってチバユウスケみたいなのが好みっすか?」
あれこれと繰り広げられる会話の波が心地良く響いていた。それはまるで室内に届く雨音のように不規則で、そんな二人の様子を眺めていると、僕は無性にシャッターを切りたくなった。
僕が首からぶら下げていたカメラで彼らを撮影すると、二人は突然のことに驚いて目を見開き、姉弟のように瓜二つの表情を浮かべながらこちらに顔を向けた。
「なによ急に。撮影料もらうからね」
「呑気にカメラなんか覗いてないで、夏目もこの会話をかき乱すくらいの勢いで来ないとだろ」
二人が弾丸のように素早く言い放ったので、「それはちょっと疲れそうだから遠慮する」と僕は答えた。
「ふふっ。確かに」
麗子さんが吹き出すと、つられて僕らも笑った。
僕の心を嵐のように通り過ぎながら浄化するのは、こういった友人の存在なのかもしれない。
これまでは遠めに眺めるだけで、触れることすら避けてきた輪の中には、僕の知らないあらゆることがごちゃ混ぜになって詰め込まれている。
好きなもの、好きではないもの、時には不愉快なものもあるだろう。
それでも、何の代償もなしに手に入れられるものには、それほどの価値しかない。
「麗子さんは、おいくつですか?」
「おい、夏目……」
「あはは。そういうのを歳上の女性に向かって聞くかな? まぁ、二十七歳だけど」と気軽に答えた彼女は、僕らを順に眺め、「二人はいくつなの?」と尋ねた。
「俺は二十二歳です。夏目もおんなじ」
「若いなぁ。大学生?」
「僕は大学に通ってて、その……えっと……」
珍しく前のめりに言葉を発した僕はすっ転ぶように言葉を詰まらせたが、二人はそれを笑うことも遮ることもなく、続きを待っていた。
「僕はわがままな末っ子で、我慢も知らないただの餓鬼です。家族と正面から話すのが恐くて、実家にもほとんど帰っていません。
自分が傷つくのが嫌だから馬鹿みたいだって決めつけて、他人の輪の中にも入らないで人付き合いからずっと逃げてきました」
彼らは黙って僕の話を聞いていたが、麗子さんはくすっと笑いながら、「どうせなら『失礼な餓鬼』ってフレーズの方がインパクトあっていいよね」と言った。
「そうなんです。こいつは失礼な奴なんです。麗子さんなら気づいてくれると思った」
「藤沢には言われたくないよ」と僕が言うと、麗子さんが笑いながら、「そうよ。藤沢君は紙一重ってところだわ」と応えた。
「どっち方面の紙一重?」
藤沢は首を傾げつつ、「むしろ麗子さんは完全に振り切ってるじゃないすか」
「あっ、やっぱり失礼な餓鬼が二人。あ、三人か。私も若い枠に入れてもらっていい?」
「いやいや、失礼の枠に入ってる方が問題っすから」
まるで欠けていたピースがピタリと嵌るように、僕の心の中に彼らの存在が収まるのを感じられた。こういうのを何と呼ぶのだろうか。
「絶望的な三人組かもね」と僕は呟いた。
すると麗子さんは不敵な笑みを浮かべ、「別に問題ないでしょ」と答えた。
「今この瞬間には誰にも迷惑をかけてないし、楽しければオーケーよ」
「いやぁ、さすが姉御!」
「誰が姉御よ」
「じゃあ、姉御肌だね」と僕が言うと、彼女は困ったように眉を下げ、「蛍くんにそう言われると、悪い気はしないかも」と答えた。
曲がりくねる山沿いの道路を僕らは走った。窓をすべて全開にし、新緑の香りが漂う風を肌で感じながら、カーステレオから流れるミッシェル・ガン・エレファントの曲に合わせて一緒に歌った。
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