第46話

 彼女にお礼を言って病院を出ると、僕らはひとまず駅に向かうため、近くのバス停で時刻表を確認していた。


「ついさっき出たみたいだな。あと一時間は来ないよ」


 藤沢は外に出た途端に噴き出た汗を拭いながら言った。「どうする、夏目?」


「待つしかないかな」


「まじか」


 バス停といっても、ここには時刻表の看板が立っているだけで屋根やベンチなどは設置されていない。立ち止まった瞬間から陽ざしがじりじりと肌を焼く音が聞こえてきそうだった。


 藤沢は少しでも日光を避けようと時刻表に身体を密着させているが、あまり意味があるようには思えなかった。


「また神社でも行く?」


「でも、さすがにもう一本逃したら……」


 そこへ病院の入口から先ほどの看護師がナース服のまま慌てた様子で出てくると、小走りにこちらへやって来た。


「良かった! 間に合った」


 息を切らした彼女は膝に手をつき、「やっぱり、私も一緒に行くわ。今さっき院長先生に早退の許可を取って、ついでに休暇届けも出してきたから」と言った。


「えっ。大丈夫なんですか?」


 煙草を吹かし始めていた藤沢は煙にむせながら、「人手が足りないって、さっき言ってたじゃないですか」


「それがね、午前中に声掛けておいた遅出の人がちょうど都合よく来たのよ。事情を話したら『行ってあげなよ』って言ってくれたからあとは任せてきちゃった」


「『任せてきちゃった』ってそんな呑気な」


「どのみち今日はもう患者さんも来ないだろうから、しばらく抜けたって平気よ。事務仕事もかなり片付けといたし」


 彼女は自慢げに胸を張り、「自慢じゃないけど、私って仕事は早いの」


「いや、それ自慢だろ」と呟く藤沢の言葉を無視しながら彼女は僕の方を向き、「私も葉山さんのことはずっと気になってたの。だから他人事には思えなくて」と言った。


 真剣な表情で訴えかける彼女に対し、「一緒に来てくれるなら、僕らも嬉しいです」と僕が答えると、彼女は少し照れたように「……ありがと」と小さく呟いた。


「あのう――」


 藤沢は僕らの間に割って入ると、「ところで、まさかその格好のまま行きませんよね?」と彼女のナース服を指差して尋ねた。


「まさか!」


 腰に手を当てた彼女は、「急いで着替えてくるから待ってて。車も出してあげる」と言いながら歩き出した。


「おぉ! 車持ってるんですね」と藤沢が言うと、彼女は鋭い目つきで振り返り、「当たり前でしょ。こんな田舎、車がなくちゃどこにも行けやしないわよ」と語気を荒げた。


「はぁ、何かすみません」と、彼女に気圧された藤沢はつい謝罪していた。


「そこに居てね。バスが来ても乗っちゃダメよ! いい?」


「はい」と僕らが答える頃には、彼女はすでに扉を開いており、数分と経たないうちに着替えを済ませて現れた。どこまでもせっかちな人だ。


 麻の黒い半袖シャツに水色のゆるいジーンズをロールアップして履いた彼女は、ナース服に比べてラフな雰囲気がとっても親しみやすく感じられた。


「涼しげで良いですねぇ」


 隣に立つ藤沢が感想を述べると、彼女は笑顔で彼のワイドパンツを指差し、「ありがと。あなたのそれもいい感じよっ」と言った。


 彼女は駐車場に停めた車に僕らを案内した。車種はスズキのラパンで、色はフレンチミントとかいうやつだった。まるで巨大なアイスクリームのように美味しそうな色合いをしている。


「あっ、そうだ! 私ったら自己紹介がまだだったよね?」


 彼女は二人を見ながら、「私は片岡麗子っていいます。よろしくね」と笑みを浮かべた。


「はぁ。まぁバッジ見たから知ってましたけど」


 藤沢は呆れたように答えながら、「ちなみに下の名前はどんな漢字を書きますかね?」と尋ねていた。


 僕らが乗り込むと彼女はすぐに車を発進させ、大通りに出てからそのまま県道に向かって走った。


「あなたの名前は、夏目蛍くんでしょ? じゃあ、『けいくん』でいいかな。私のことも気軽に、麗子さんって呼んでね」と彼女は助手席に座った僕に向かって言った。


「あ、ちなみに俺の名前は藤沢しゅうですけど」


 後部座席から藤沢がアピールすると、「うーん。君は、『藤沢君』かな。そっちの方が何かしっくりくるし」と彼女は前方を向いたまま答えた。


「はぁ、そうですか」と答えた彼はふと首を傾げ、「え、しっくり?」


「確かに。藤沢は、『藤沢』って感じだよね」と応えながら、僕はつい笑ってしまった。


「喜んでいいものか、怒っていいものか複雑だが」


 難しい顔を浮かべた藤沢は、「……まぁ、いっか」と呟きながら顔に皺を寄せて笑った。


「これでも周りからは、『秋ちゃん』って呼ばれるんだけど」


「それはないわね」


「ないよ」


「いや、現実の話だから」


 麗子さんは運転席の窓を全開にすると、鞄から取り出したセブンスターの煙草を口に咥えて火をつけ、カーステレオの音楽を流し始めた。


 聴こえてきたのは『ミッシェル・ガン・エレファント』で、愛らしい印象のラパンから骨太のロックが流れるという、ちぐはぐな感じがどこか可笑しかった。


「お、ミッシェル!」と藤沢がすかさず反応すると、彼女は僅かに振り返り、「私ね、この人たち大好きなの」と言った。


「精神科の病院なんかで勤めてると、意味不明なこと言う人がたくさん来るからもう気分も落ち込んじゃって。まぁ、病院に健康な人がやってくるわけないんだけど」


 言われてみればそうだ。健康な人は病院に用がない。


「お腹を壊したり、風邪を引いたら病院に行くじゃない? そういうとこの患者さんはまだ扱いやすいかもね。ただ痛がったり、気怠そうにしてるだけなんだもん」


「精神科って大変なんですか?」と僕が尋ねると、彼女は「うーん」と唸り声を上げ、「まぁ、変わった人は多いかな。悪い人たちじゃないんだけど」と答えた。


「受付の時は大人しそうに見えた人が突然待合室で叫びだしたりとか、夜になると廊下を徘徊する人とか、気持ちが不安定になると暴れたりする人もいるしね」


「そりゃ、ちょっと怖いですね」と藤沢が答えた。


「あとね、精神病の患者さんって介護が必要な身体の人も多いから、そういう患者さんたちを毎日何人も相手にするのは結構疲れるかな。時々こっちが精神的に参っちゃうくらいかも。性格の悪い人もいるしね。これに関してはどのサービス業でも同じだと思うけど」


 麗子さんは片手でハンドルを操作しながらもう片方の手で煙草を吸い、その両方を凌ぐ速さで口を回転させていた。


「そりゃ病気だし、仕方のないことだから患者さんを悪くは言いたくないんだけど、それでもやっぱり、こっちも苦労してるんだってことはどこかで知ってもらいたいかな。何をしたって誰にも感謝されなければ、気づかれもしないんだから」


 そこまで言うと彼女は突然口を噤み、車内に流れるミッシェル・ガン・エレファントの音楽だけが耳に響いた。


 田舎道は交通量も少なく、彼女はかなりの速度で車を飛ばしている。車線の右側には電信柱の列が等間隔に続き、各頂点から波打つように電線が繋がっていた。


 僕はぼんやりとそれを眺めていたが、ふと小学生の頃に祖母と放課後の校庭で練習した雲梯を思い出した。

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