第45話
「葉山蓮介さんがこの病院に通院し始めたのは、今から六年前。その当時の私は、ここで働き始めたばかりだったからよく覚えてるわ。
初めは軽い幻聴があるとかで、自宅から週に何度か通いでやって来てたの。そのうちに先生が一度集中的な治療を試みた方が良いと判断して、葉山さんもそれには同意してくれた。
それでこの病院にしばらく入院することになったの。その時の担当が私だった」
「なるほど」
藤沢はカルテを見つめながら相槌を打っている。「結構長いこと入院したんですか?」
「それほど長い入院でもなかったかな。たぶん一週間か、二週間か。――あ、これね」
彼女はカルテのページを指差した。
「八月三日から八月十三日の十日間。この期間で症状が完全に改善された訳ではないんだけど、特にひどい症状も起きなかった。
普通に院内を歩き回ったりお話したりもしてたしね。先生もその様子を見て、あっさり退院を決めちゃったわけ」
「あんまり意味なかったな」と藤沢が呟くと、彼女は優しく微笑みながら、「意味がなくはないのよ。入院中に色々と経過を見ることはできたしね」と答えた。
「でも、まだ完治とは呼べないから定期的な通院は必要だって先生が言うと彼も納得してくれたし、次の診察も予約して帰っていったわ。でも――」
そこで彼女は表情を曇らせ、「葉山さんはその日を境に、病院には来なくなってしまったの」
「えっ、予約したのに?」
「その日から一度もですか?」と僕が尋ねると彼女は頷き、「うちは病院だし、患者さんが突然来なくなることはあるのよ」とため息をつくように答えた。
「いつの間にか完治しただとか、通院が面倒になったとか理由は様々でしょうけど、それをとやかく追求する権利は私たちにはないし、彼らにも知らせる義務はないんだから」
「それにしたって……」
藤沢は少々言いづらそうな表情でこちらを見つつ、「予約したなら、キャンセルの連絡くらいすれば良いのにさ」
「そうよねぇ」と彼女は小さく漏らし、「私たちの間でも、『おかしいね』って一時話題になったの。葉山さんはそんなことする人に全然見えなかったから。
でも、人って見かけによらないでしょ? だから私は、もうすっかり完治したんだと思うことにしたの。その方が気分も悪くならずに済むしね」
「まぁ、そうですね」
藤沢は相手の調子に合わせ、「その日から、この辺で見かけた人とかもいなかったんですか?」
「ううん、聞いてないかな。狭い街だから、見てたら絶対噂が回るはずなんだけど」
「街を出ちゃったんですかね」
僕は二人の会話を聞きながらファイルをひと通り眺めたが、これ以上の情報は書かれていないようだった。
「さっき、『息子さんがいる』と言ってましたよね?」
「あ、そうそう!」
彼女は一度手を叩き、「入院中に何かの話の流れで聞いたの。その時は確か二歳だって言ってた気がする」
「さすがに、夏目じゃないよな?」と藤沢は横目で僕を見ている。
「今の僕が小学生に見えるか?」
「だよな」
「あと、これね」
彼女はテーブルの上に一枚の写真を置いた。
「葉山さんが入院した時に撮ったの。私にとっても、初めての担当さんだったから……」
「なんだ、お姉さんも持ってんじゃないですか」
写真を覗き込んだ藤沢は、「おぉ、やっぱ目元の辺りとか夏目にそっくりだな」と興奮したように言った。
写真の中には今よりも少し心許ない表情を浮かべた彼女と父が並び、その隣には口ひげを生やした人柄の良さそうな人物が映っていた。
僕の記憶の中にある父はもっと痩せた印象をしていたが、数年間で随分と体重が増えたようだ。所々に白髪が混ざっているものの、それでも若々しさの感じられる涼しげな目つきを似ていると言われ、少し気恥ずかしい気分だった。
「通院記録に住所は残っていますか?」
「もちろんあるわ。今もそこに住んでいるかどうかは分からないけど、紙に書いて渡してあげる」と答えると、彼女は手早く紙とペンを取り出した。
「他に何か、父とお話したことは覚えてますか?」
「そうねぇ、ほとんど私の話を聞いてもらってたからなぁ」と言うと彼女は考え込み、「あ! 押切山の話ならよくしてたかも」
「誰ですか、オシキリさんって?」
藤沢が目を細めて尋ねると、彼女は冷ややかな視線を彼に向け、「違うわよ。押切山は県道の外れにある山の名前」と答えた。
「葉山さんは登山が趣味だったみたいでね、子供みたいに夢中で話してたなぁ。私は登山に全く興味がなかったから、話半分で聞き流しちゃってたけど。――はい、これ」
彼女は住所を書いた紙を僕に手渡した。僕はそれをポケットにしまい、席から立ち上がった。
「ありがとうございます。助かりました」
「これからどうするの?」
「とりあえず、この住所に行ってみようと思います」
「そう。気をつけてね。もし会えたら、私からもよろしくお伝えください。あの時はみんな心配してたから」
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