第39話

「それである日、葉山蓮介はうちを出て行ったわけ」


「『ちゃんちゃん』って感じに最終話を迎えたような言い方だけどさ、それで終わりなの?」


 藤沢は顔をしかめてそう言うと、グラスを指でコツコツ叩き、「連絡先くらい残して行かなかったのかよ?」


「特に何も。食卓の上に指輪と離婚届が置かれてたね。それも僕が見つけた」


「それはまた……」


 藤沢は頭を抱えるようにしてカウンターに顔を伏せ、「幼い末っ子にとっては、悲惨だよな」


「そうかな? 僕はあれを見つけた時、むしろほっとしたけど」


「えっ」と藤沢は伏せていた顔を上げると、頭上に疑問符を浮かべ、「……親父がいなくなったのにか?」と尋ねた。


「険悪な二人を見ずに済むからね」


 僕は黄金色に溢れたグラスを眺めながら、「毎度のように見せ付けられると、あの人が帰ってくるだけで身体が震えるんだ」と言った。


「意味もなく恐くなるし、拳を握ったまま身体が強張る。いつ母さんが怒鳴り散らすかって思うと、胸が締め付けられるような気分だったよ」


「それは心が休まらないな」


「父さんが失踪扱いになると、うちは生活保護を受けて生活することになったんだ。僕らは旧姓の夏目を名乗り、それからずっと、母さんは同じ調子さ」


「お前んち、大変だな」


「たぶん、もっと大変な人はたくさんいる」と呟きながら、僕は頭の中に彼女を思い浮かべていた。


 藤沢は僕のグラスに自分のものを静かに当てると、斜め上に視線を向けながら一息に流し込んだ。それはまるで、誰かに祈るような仕草に思えた。


「――本題は、ここからなんだ」


 僕が少々改まった調子でそう言うと、藤沢は箱から取り出した煙草を慌てて戻しながら、「え、どういうこと?」と尋ねた。


 父が失踪した翌月から、さほど多くはないものの一定の金額が母の口座に振り込まれ始めた。それはどう考えても、彼の仕業以外に考えられなかった。


 入金は六年ものあいだ毎月欠かさず行われたが、六年経ったある日にそれがぱったりと途絶えた。


「さすがにもう良いかって思ったんじゃないの?」


「僕もそう思ったんだ。けど、これ見てよ」


 僕は巻島の診療所で撮影したカルテの写真を取り出して藤沢に見せ、一部を除き(彼女のことは結局言い出せないまま)先日連絡の取れなかった数日間のことについて彼に事情を説明した。


「それじゃ夏目の親父さんは、六年前に精神病になったせいで仕送りをやめちまったってこと?」


「どうかな。本当にもう終わりにしようと思ってやめたのかもしれないし、そもそもこのカルテの人物が僕の父親かどうかも確証がないんだ」


 僕はそう答えると、写真の一部を指差し、「でもさ、ここには転院先の住所が記載されてるんだよね」と言った。


「へぇ、そうなんだ」


 藤沢は気の抜けた声でそう答えると、うまく事情が飲み込めないといった顔で僕を見つめていたが、やがてビールをぐいっと飲んでからニヤリと微笑み、「お前の言いたいこと、大体分かってきた」


 僕はカルテの情報をもとに、父の転院先を訪ねようと思っている。


 正直なところ、今さら家に帰ってきて欲しいなどとは微塵も思っておらず、かといって恨んでいるわけでもない。


 家族を捨てたことは当然許される行為ではないけれど、父は愛する者たちに拒絶され、長い間一人で苦しみ続けてきた。


 精神を崩壊させていく妻の姿を見続けるうち、彼自身も少しずつ壊れてしまったのかもしれない。今では僕も、そう思えるようになった。


 同情しようとは思わない。ただ、必要以上に悲観しないだけだ。


 立場も違えば、僕は葉山蓮介でもない。悲しみの度合いなど他人に推し量れるものではないのだから。


「また親父に車借りてやろうか?」


 藤沢はそう言いながら煙草に火をつけ、「この住所だと、結構遠いよな?」と尋ねた。


「いや、車は大丈夫だよ。今回は列車に乗ってみようと思うんだ。わりと眺めも良いみたいだしね」


「すでにリサーチ済みかよ」と藤沢は笑いながら、「それで? いつ行くんだ?」と言った。


「明日から行ってみようと思う。藤沢はバイトがあるだろうし、今回は僕一人で――」


「ちょい待ち!」と僕の言葉を遮った藤沢はポケットから携帯電話を取り出すと、素早く何かを打ち込んだ後で顔を上げ、「よしっ。これで俺もしばらくはフリーだわ」と言った。


「別に僕は、一人でも構わないんだけど」


「だったら何で俺に話したんだ?」と言って肩を竦めた藤沢は左右に首を振り、「一緒に来てほしいって素直に言えば良いのに」と言った。


「冒険には相棒が付きものだろ? やっぱライアンにはホイミンが必須なんだよ」


「なにそれ、映画?」


「いや、ドラクエだよ。……知らない?」


「僕の知識には偏りがあるんだ」


「味の好みも結構偏ってるよなぁ」と茶化すように言った藤沢は、こちらの席を指差した。


 僕の前にはたこわさびの空き皿がいくつも積まれている。


「だって、これ美味しいから」


「悪いとは言ってないよ」藤沢は僕の肩を叩き、「俺も好きだ」


 もしも彼女が隣にいたら、きっと一緒に行きたがったはずだ。あの日彼女に借りたカメラを、僕は持ち続けている。いつか返したいと思っているし、それが想い出に縋る行為だと言われれば否定もできない。


 僕は彼女と一緒にやるべきだったことを経験したいのかもしれない。それが仮に近所の夏祭りでも、湖でのネッシー探しでも、やはり試してみたと思う。それが今回は、父親を探す旅だったというだけの話だ。


 だから今回の訪問の動機は、ただの気まぐれに過ぎない。それもこんな風に背中を押されなければ、行動を起こすことはなかっただろうけれど。


「じゃあ、明日は駅前に集合ってことで。今日は早いとこ切り上げて準備しますか」


 早口にそう言うと、藤沢は店員にお会計の合図をした。


「早速仕切ってるし」と僕が目を細めて答えると、彼は面倒臭そうにため息を漏らし、「じゃあ夏目が決めろよ」と言った。


「では、明日は駅前に集合で……ございます」


「『ございます』ってなんだよ」


「仕事は丁寧な方がいいだろ」


「お前は丁寧の意味を完全にはき違えてるな」


 それからしばらくの間馬鹿な言い合いをした後、僕らは解散して次の日に備えた。

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