カムバック・ホーム
第38話
「絶対的に清潔って事はないんだよ! 完全な悪人が存在しないようにな!」
父がただ一度、母に声を荒げた瞬間の台詞だった。この言葉は、今でも僕の脳裏に深く刻まれている。それほど印象的なフレーズだった。
父に関して他に覚えている事といえば、彼が何気なく口ずさんでいた歌くらいのものだ。
恐らくそれは英語の歌で、幼ない僕には上手く聴きとることが出来なかったが、かろうじて覚えているのは「Sunday morning ―― 」から始まる歌い始めの歌詞と、そのメロディライン。
十歳にも満たないちんちくりんの頃の話で、その頃の僕は完全に母の支配下だった。
訳も分からぬまま父とは関わないよう命じられ、まるでいないものとして生活を送ってきた。
僕ら三兄弟にとって、母の言いつけは絶対だった。少しでも歯向かうとご飯を抜きにされ、手で叩かれ、ひどく罵倒される。
そのため僕の思い描く母親像は、世の一般的な子供たちに比べるとひどく歪曲したものになっていた。
これは以前に祖母から聞かされた物語を僕が再構築した代物に過ぎない。ゆえに、まるっきり真実とも限らない。
父と母は同じ大学に通い、その頃に知り合った。
「夏目がどうしてこんな風に育っちまったのか、分かるわけだ」
「茶化すなら話さないよ」
「へいへい」
ほろ酔い気分でアルコールを流し込む藤沢は、反省するように敬礼してみせた。僕は右手に持ったビールで喉を潤すと、カウンターの向こうを見ながら話に戻った。
共働きの家庭に生まれた母は、中学の頃にお堅い女子高に憧れを持ち、両親に頼み込んで受験をした。勉強熱心な彼女は見事に合格し、高校からはお堅い環境でお堅いご令嬢たちに囲まれ、お堅い教育を受けることになった。
当然ながらボーイフレンドを作ったことは一度もない。それは彼女の容姿がひどく醜かっただとか、多分に問題を抱えた生徒であったというわけではない。
資産家の友人から社交界やパーティーに誘われることは度々あったものの、彼女はそういった場に相応しいドレスを用意するお金がなく、両親にも相談できず機会を逃し続けた。
学友達の家庭にはどこも似たり寄ったりの決まりごとがあり、下校途中の寄り道はまず許可されない。帰宅後はお稽古事や夕食会に出向くのが日課であり、間違ってもカラオケやファストフード店になんて出入りしなかった。
両親が勧める男性以外とは交友関係すら持つことが叶わず、そんな特殊な環境下で青春時代を過ごしたため一切の出会いに恵まれなかった彼女は、大学生になるまでご令嬢たちと同じ、いや、それ以上に鋼鉄の箱入り娘であり続けた。
父はこの上なく平凡な家庭の生まれだった。
高校を卒業するまでには友人とつるんで授業をサボったり、ゲームセンターに行ったり、殴り合いの喧嘩も経験した。
気まぐれにガールフレンドを作っては別れ、勧められて酒や煙草もほどほどにやった。そんな当たり前の思春期を送った若者だった。
高校生活で己の身の丈を知り、一般の大学へ進学した母は入学した途端に唖然とした。
キャンパスには当然のように男の子が存在しており、馴れ馴れしく髪や身体に触れてくる。女性陣はそれらに向かい、色気を武器に平然とすり寄っていた。
彼らは我を失うほどに酒を食らい、人前で吐瀉物を吐き、その口でディープキスをした。母が長年培ってきた常識は一瞬にして打ち砕かれ、その頃から彼女は、『汚いもの』に対する嫌悪感を露わにするようになった。
葉山蓮介という男に彼女が初めて出会ったのは、半ば強引に連れて行かれたゼミの飲み会の席だった。周囲の獣じみた男どもと比べ、彼は一風変わった性格(少なくとも母にはそう映ったようだ)をしていた。
女学生とは一定の距離を保ち、酒に酔って自我を崩壊させた阿呆どもを介抱する役にわざわざ納まるお人好しで、その姿は彼女にとって、まるで紳士たるものの鏡だった。
彼女はやがて葉山蓮介に惹かれ始め、いつしか二人は交際を開始した。大学を卒業後は互いに別々の会社に就職したが、数年経った頃に彼女が妊娠を機に会社を辞め、そのまま専業主婦となった。
「夏目蛍の誕生だな!」と藤沢は口を挟み、おかわりのビールを店員から受け取っている。
「その前に二人も出てくるけどね」
「あ、その頃は葉山蛍か」
彼は気づいたように言うと、「結局のところ、親父さんは何で出て行っちゃったわけ?」と尋ねた。
「もう少し待ちなよ。これから話すから」
「へーい」と答えた藤沢はビールを飲みながら、話の続きを待った。
結婚生活は概ね順調だった。父が働きに出て、母が子育てと家事を担当した。父の収入はさほど多くはなかったが、それでも三人の息子を育てながら滞りなく生活が送れたのは、母の貢献が大きかったに違いない。
家計をやり繰りし、無駄を省いて必要な投資以外にお金は使わない。その頃の我が家はつつがなく暮らしていた。母がある一定のラインを越えるまでは。
母はもともと神経質なところがあった。出しっぱなしは許さない、手の消毒は怠らない、こまめに机の上を拭く、ご飯を食べる時に音を立てない。
基本的な生活面において、僕たち息子は母から上等な教育を授かっていた。彼女の献立管理のおかげで、今の僕はわりと良い味覚を持っていると思う。
きっかけは、母が高校時代の友人と街で偶然再会したことだった。
彼女は誘われるまま、近くのティーサロンへと同行した。友人はすでに資産家の息子と結婚し、見るからに裕福な生活を送っていた。上等な衣服を纏い、高級な茶を湯水のように扱った。
そんな友人の姿を見た母に、羨望の気持ちは一切生まれてこなかった。むしろ、自らの意思で選んだ伴侶と肩を並べ、身の丈に合った生活を送ることが自分にとって最大の幸福であると思えるようになっていた。
しかしながら、友人と別れた後になって考えてみると、息子たちの将来のためにはより高等な教育を受けさせるべきだと彼女は思うようになった。
苦しい家計をさらに切り詰めて息子たちを高額な塾に通わせ、そのうち金のかかる楽器まで習わせ始めた。
「なんで楽器?」
「さぁ。誰かに入れ知恵されたんじゃないかって聞いた気がする」
「まぁ、ぼんぼんって奴らはそういうのを嗜むものだしな」と、藤沢はビールの苦味を表現するように顔を歪めた。
それから少しずつ、全てが狂い始めた。
無理な出費がかさみ、家計はいつの間にか火の車となった。母は雑費を切り詰めるため毎日のように頭を抱え、神経質な性格にも拍車がかかった。日増しに命令口調になり、やがては重度の潔癖症に陥った。
何かに取り憑かれたように毎日徹底した掃除を行い、大量の時間と労力をそれらに費やしていた。
この事態に危機感を覚えた父は夫婦間で話し合いを設けたが、彼が何を提案しようとすでに手遅れだった。母は精神をひどく病んでいたのだ。
給与明細を見つめてあからさまにため息をつく日々が続き、父が会社の付き合いで焼肉を食べて帰ると、バケツ一杯にもなりそうな量の消臭剤を玄関先で浴びせかけた。
そのうち彼が帰宅するだけで舌打ちするようになり、触れることにすら拒否感を示し始めた。
幼い息子たちにこの暴走を食い止める術はなく、それどころか、母から洗脳に近い教育を施された長男と次男はすでに彼女の手先と成り果てていた。
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