第37話

 やがて日も沈み、巻島が帰宅すると三人で揃って夕飯の支度をした。


 彼は一人で準備することを提案したが、ナナが一緒にやりたいと言い張るので渋々了承した。


 夕食には魚介をメインとした鍋料理を作り、みんなで囲んでそれを食べた。彼女はひときわ明るい表情を浮かべ、珍しく冗談を口にしながらたくさんの笑顔を見せてくれた。


 巻島もそんな彼女の様子を満足そうに眺め、昨晩と同様にバーボンを飲みながら上機嫌に葉巻を吸っていた。


 夜が更けてくると交代で風呂に入り、ナナは先に部屋へ戻ったが、僕は巻島にしばらく付き合わされた。やがて彼がうたた寝を始めた頃、ようやく部屋に戻った。


 自室で煙草を吸いながら、そろそろ眠ろうかと思っているとノックが聞こえてきた。扉を開くと、そこにはパジャマ姿のナナが立っていた。


「一緒に寝てもいい?」


「もちろん」


 とは言ったものの、この部屋にベッドは一つしかない。彼女にベッドを譲り、僕は床で眠ろうかと考えていたのだけれど、隣にいてほしいと言われ、迷った末に同じ布団に入った。


 僕の腕にひっついたナナは肩に頬を寄せ、「今日は襲わないから安心してね」とくすくす笑いながら囁いた。


「そりゃ残念」と目を瞑った状態で僕がニヤけていると、彼女は出し抜けに僕の頬にキスをした。


 目を開くと、暗闇の中でこちらをじっと見つめる彼女の姿が薄っすらと見えた。


 僕らは至近距離でしばらく見つめ合っていたが、彼女が懐に身を寄せたので、僕はそっと抱きしめながら頭を撫でた。


 こんなにも人に求められたのは、初めてのことだった。


 どうしても、彼女を救いたい。


 一人ぼっちになんてしたくない。


 ここを出たら藤沢と相談して、また会いに来よう。きっと……。


 彼女の身体はとても柔らかくて、暖かい。まるで優しさに包み込まれるような感覚に、僕の意識はすぐさま朦朧とし始めた。


 ほんの少し、長めの瞬きをしたかと思えばすでに朝を迎えていた。


「ナナ……?」


 目が覚めた僕の隣に、彼女の姿はなかった。


 そこだけぽっかり穴が開いたような欠落感に、僕は例えようのない不安を覚えた。額からは冷や汗が溢れ、胸の辺りに動悸を感じる。


 急いでベッドから飛び起きた僕は、扉を開けて部屋を出た。


 視線の先には巻島が佇んでいた。


 彼の目の前にはナナの部屋があり、扉の開け放たれた室内を眺めながら、彼は呆然と立ち尽くしていた。


 僕は恐る恐る彼の隣へ歩いて行き、部屋を覗き込んだ。


 彼女の姿は見当たらない。


 それどころか、部屋に散乱していたはずの彼女の私物がごっそりなくなっていた。


 室内に入った僕は慌ててクローゼットやタンスの引き出しを確認したが、ほとんど何も残されていない。壁に掛かっていた写真もすべて剥がされていた。


 入口で未だに硬直したままの巻島を無視して廊下に出た僕は、建物の中を隅々まで見て回った。それでも彼女の姿は見当たらず、玄関を出ると車がなくなっていた。


 初めに確認しておけば良かったと後悔しつつ、今度は急いで巻島を探した。


 彼はいつの間にか、あの部屋に移動していた。呑気に書類の整理を始めている。


「あの車のGPSは!」


 額の汗を拭いながら僕はそう尋ねたが、巨大なビニール袋を広げた彼は、書類やファイルを無造作に投げ捨てていた。


 何事もなく、まるで机の整頓をするためだけにやって来たような面持ちで。


「そんなものは付けていない。もう何をしても無駄さ」


「無駄? 何が無駄なんですか!」


 表情は何も語らない、何も感じていない。本当は分かってるんだろ? 見ようとしてないだけなんだろ……?


 彼の元へ向かいながら、僕はその姿をつぶさに観察した。


 表情の歪み、身体の強張り、溢れだす後悔。


 当然あるべきものが、そこには一切見当たらない。


「彼女は治療を放棄したんだよ。僕の好意を踏みにじり、そのうえ車まで盗んでね」


 彼は涼しい顔つきでビニール袋の口を閉じる。彼女のカルテが入った、そのビニール袋を……。


「捜す気はないってことですか?」


 どうして、いつも自分のことばかりなの?


 僕が言うことには何の興味もないの?


 彼のすぐそばまで来た。机の上を見ると、彼はさも普段通りとばかりに書類を並び替えて几帳面に埃を払っていた。あの時の母と同じように……。


「もう遠くへ行ってしまったさ。痕跡は残っちゃいない」


 そう話す彼の表情にはもはや患者を想う責任感や使命感も窺えず、興味すら失われてしまったように思えた。


 目の前のひどく整った書類が、無性に目障りに思えた。僕はそれらを乱暴に掴み、地面にばら撒いた。


「あなたには好都合じゃないですか」


 あんたのせいで、あの家はおかしくなったんだろ? ……素直に認めてよ。


「そのまま通院記録も抹消して、あなたが忘れさえすれば、この件は全部もみ消せますね。世間様のイメージも壊さずに済む」


「君は何を怒っているんだ?」


 彼は律儀に書類を拾い始め、「僕は最善を尽くしたつもりだよ。それでも分かり合えなかったのは、僕に運がなかったのさ」


「運?」僕は拳に力が入るのを感じた。「そんなもんを言い訳にするなよ……」


 僕は声を震えさせながら、静かに怒鳴った。


「あなたの立場なら、ナナを助けられたでしょ? 近くでよく見たの!? ちゃんと向き合おうとしたの!?


 やり方がどうとか専門的なことはよく分からないけど、そんなの……無理やり押し付けるべきじゃなかった……」


 母さん。あんたは……母親失格だよ!


 拳に込めた怒りの矛先は彼を含め、彼の先に見える影に放たれている。それは痛みを伴い、僕は胸が張り裂けそうだった。


「何が精神科医だよ! あなたは単にやり方を間違えて、失敗しただけじゃないか。それをなかったことにしちゃ駄目だ!」


「失敗?」


 巻島は素早く立ち上がると、僕の顔を鋭い目つきで睨みつけた。


「僕がいつ失敗したっていうんだ!」


 次いで歪んだ笑みを浮かべた彼は、「アプローチも治療法も、何一つ間違ってなんかいないん……はずだ」と低い声で自制するように言い放った。


「……そうですね」


 入口に向かって歩きだした僕は、扉の前まで来ると振り返り、「それなら、僕も忘れます」と言って部屋を後にした。


 二階に上がった僕は服を着替えてすぐに部屋を出ようとしたが、机の上に置かれたカメラに気づくと、それを持って診療所を後にした。


 一度も振り返らなかった。海沿いを歩いていると無性に煙草が吸いたくなったけれど、箱の中身はすでに空になっていた。


 すべて終わってしまった。僕には何も出来なかった。何もしてあげられなかった。涙に滲んだ瞳で眺める海は、もうあの海とは違う。僕はカメラを抱えたまま、行く当てもなく歩き進んだ。


 ようやく帰宅すると、憤った表情の次男が無断外泊について問い詰めてきたが、僕はそれを無視しながらそそくさと二階に上がり、部屋に篭もった。


 携帯電話を充電すると藤沢から恐ろしいほどの着信が入っている。しばらくして電話をかけると、僕はぶつくさと文句を言う彼の声を聞いた後、いつもの店で会う約束をして通話を切った。


 夕方になって店に行くと、彼はすでにビールを飲みながらカウンター席で項垂れていた。隣に腰かけた僕は、同じようにビールを注文した。


「お前、何やってたんだよ。全然電話にも出ないし」


 身体を起こした彼は早速煙草を咥え始め、「ていうか、電源切ってたろ」と言った。


「僕以外に友達はいないの?」と注文したビールを受け取りながら尋ねると、彼はため息をつき、「今さら何言ってんだか」と答えた。

「いないだろ、どう見ても」


 そう言い切るところが、この男は本当に素直で良い。


 僕は店員が近くを通ったところで、レコードのリクエストをしてみた。運よくあのレコードがここにも置いてあるらしく、店員は快く了承するとそれを流し始めた。


「なんだ、ショパンかよ」と呟きながら、藤沢はこちらを向き、「夏目、なんかあった?」と心配そうな顔つきで尋ねた。


「別に。何もないよ」と答えた僕は、ビールを飲みながら店内に流れるショパンのピアノソロに耳を傾けた。


「そっか」と呟いた彼はカウンターに肘をつくと、ため息交じりに煙草の煙を吐き出したが、それ以上は何も聞いてこなかった。


 ビールを一気に飲み干した僕は、空になったグラスを眺めた。


 ……空っぽ。


 それはどこか、今の僕のようだ。


「ねぇ、バーボンを飲まない?」


 けれど今の僕には、それを満たすための手段も、それを手助けしてくれる相手もいる。


 藤沢は勢いよくグラスの中身を飲み干すと、「どうせならボトルで頼もうぜ」と答えてバーボンを注文した。


 店内では、彼女の大好きなあの曲が流れ始めている。僕はこの曲を聴くたび、これからも彼女を思い出すだろう。それが彼女の望みだとすれば、僕は喜んでそれを受け入れよう。


 されど願わくば、その音色が風に乗ってどこまでも響き渡り、いずれ彼女のもとまで届いてくれればと思っていた。

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