第36話
「あなたが気を失ってすぐ、私はあの人に連絡した。そしたら状況を説明しろって迫られて……。でも、私が気づいた時にはあなたはもう倒れてたから、上手く説明ができなくて。そしたらあの人、私のことを睨んで、『お前は向こうに行ってろ!』って怖い声で言うの。
あの人が夏目さんを見る目は、まるで新しいおもちゃを買ってもらった子供みたいだった。そして私は、彼にとって興味のなくなった捨てられる前の古いやつ」
だからこそ、彼女はなかったことにした。彼と僕が話している最中に乱入した彼女は、恐怖心から逃れるための別人格……。どうして彼女がそこまで追い込まれなければならないのか? 『父親のように』だなんて、軽々しく口にして。
「あなたは、あの人とは違ったの」
彼女は静かに顔を上げると、呟くようにそう言った。
「初めて会った時から、私のことを見てくれた。人格が切り替わってすぐに気づいてくれたこと、すごく驚いたのよ。でも、嬉しかった」
「それが、僕に会いたかった理由?」
「そうよ。きっと迷惑になるって分かってたけど、それでも気持ちを抑えることができなかった。結局は不愉快な思いをさせちゃったね」
「君を迷惑に感じたことなんてないよ。先生には、多少感じたかもね」と言って僕が微笑むと、彼女は少しだけ笑みを返したが、すぐにまた沈んだ表情に戻り、「あなたはほんとに優しい人。だから、甘えてしまうの」
時より強い風が吹いた。潮風に乗って届く彼女の髪の香りは、どこか涙に似ていた。
少しでも、彼女の役に立ちたい。すでに僕は、誰かに手を差し伸べられる喜びを知ってしまったのだから。
「僕で良ければ、いつでも会いに来るよ。あのお喋りな奴も君に会いたがってた」
「藤沢さんのこと?」と言った彼女は心底嬉しそうな表情で微笑み、「あなたたちって最高だよね。二人を見てるだけで、とっても楽しかった」と言った。
「君が喜んでくれたなら、あいつの無駄話も捨てたもんじゃないね」
僕は彼女の方へ身体を向け、「ねぇ、担当の先生を変えてみるのはどう? 今度はもっと相性の良い人が見つかるかもしれない」と提案してみたが、彼女はまた青白い顔をして俯いてしまった。
「……そんな権限、私にはないもの」
彼女はそう呟くと、俯いたまま身体を抱き、「私はね、お母さんに捨てられたの」と言った。
「暴力ばっかりだったお父さんはもういないし、お母さんが新しい一歩を踏み出すためには、今の私は重荷みたいだから……」
風に煽られた髪を耳にかけると、彼女は何かを想うように温かな表情でこちらを見つめ、「あなたたちに出会った夜は、私にとってすごく大事な思い出なの」と言った。
「別の私がお店に入ってあなたに話しかけた時、私はまるで映画を観るような気分でそれを眺めてた。でも気づいたら私の番が回ってきて、直接話すことも触れることもできた。とっても充実した時間だった!」
「僕も楽しかったよ」
「昨日街へ行ったのもね、何度も地図を見て道を暗記したの。だって、ドライブに誘おうって人が道に迷うなんて格好つかないじゃない!」
「完璧なドライブだった」
「でもね、いつもそう上手くはいかない。昨日の子みたいにあなたを良く思ってない人格もいる。そういう子は何をしでかすか分からないし、私はそれを止める術を持たないから」
楽しげに思い出を語っていたはずの彼女は、またも唐突に沈み込んだ。繊細で移ろいやすい感情が、彼女を苦しめている。本物の自分と別人格の狭間で不安に押しつぶされてしまいそうに思えた。
「誰にでも同じ態度を取れる人や、我慢できる人は少ないよ。君は他の人よりもちょっぴり自分に素直なだけさ」
些末なことなんだ、本当に。僕だって器用な方じゃない。藤沢みたいに振舞える人間が、どれほどいるというのか。
「楽しい瞬間だけを保管できればいいのに。そしたらいつでも幸せな気分でいられる。だからね、私は写真が好きなの」
「写真?」と僕が尋ねると、彼女は両手でカメラを構えるような仕草を見せ、「大好きな瞬間をカメラに収めて、それをまた見返すのが好き」と言った。
「その瞬間は、いつまでも色褪せることがないから」
彼女の部屋には、いくつもの写真が飾られていた。彼女はそれらを必死に守ろうとしている。まるで壊れてしまうのを恐れるように、その時間をフレームの中に閉じ込めて。
「だからもうこれ以上、あなたは私に関わらないで。ここまで巻き込んでおきながら、ほんとに悪いと思ってる。でもね、私はあなたが傷くのを見たくない」
「ナナ……」
「たまに、ほんのちょっぴりだけでも良い。今の私をあなたが記憶して、それをいつか思い出してくれたら、私はそれだけで十分」
そう言うと、彼女は深々と頭を下げた。
「私って、ほんとわがままだよね」
彼女の肩は小刻みに震えていた。僕はその華奢な肩にそっと触れ、「それでも、また会いに来るくらいは良いだろ?」と尋ねた。
「一人でも、藤沢を連れて来たって良い。たまにみんなでお酒を飲んで、馬鹿みたいに笑って、自分が何者かなんて忘れるくらいに踊るんだ。そうやって楽しい想い出をたくさん作って、少しでも君の役に立てれば、僕も嬉しい」
「……楽しそう」
小さくそう呟き、顔を上げた彼女の頬には涙が伝っていた。僕は指でそっとそれを拭い、「約束する。また会いに来るよ」と答えた。
それからしばらくの間、僕らは昨晩の雨で高くなった波を眺めていた。上空には青いキャンパスに点々と浮かぶ鴎の群れが見られ、それはまるで譜面上を漂う音符のようだった。
彼らが優雅に飛行すると、そこから美しい音色が流れてくるように思えた。
「人生を例えるなら、アイスクリームかもね」
おもむろに立ち上がった彼女は、まるで風に向けて語りかけるようにそう呟いた。静かに海岸線を見つめるその姿は今にも消え入りそうに脆く、儚く、――そして、美しかった。
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