第35話

 眩しさで、自然と目が覚めた。


 頭が割れるように痛いのは、やはりアルコールの取り過ぎか。窓から差し込む太陽光は、その惨めな痛みをさらに悪化させるような気がした。


 僕は目頭を押さえて起き上がると、窓を開けて煙草を一本吸った。残りの本数も徐々に少なくなっている。


 雨上がりの木々には水分を帯びた葉が多く見られ、風が吹くとそれらの水滴が地面に向かって一斉に振り落とされた。


 視線を下へ遣ると、ウッドデッキのベンチに座って項垂れるナナの姿が見えた。気づけば僕は煙草を押しつぶし、部屋を飛び出して階段を駆け下りていた。


 一階のダイニングを通ると巻島が例のごとくキッチンで食事の準備を始めており、食卓にはすでにいくつかの料理が並んでいる。


「おはよう! よく眠れたかい? 昨夜は雨が降ったようだね」


 こちらに気づいた彼は溌剌とした声を出すと窓を指差し、「悪いがナナを呼んで来てもらえるかな? 恐らくこの時間は外にいると思う」と言った。


 恐らく……、か。どこまで彼女を放置すれば気が済むのか。


 玄関を出た僕は、ナナの座るベンチに向かって歩いた。彼女は虚ろな表情を浮かべたまま目の前の森林をぼんやり眺めていたが、僕の存在に気付くと遠慮がちに微笑んだ後、また空っぽの人形のように空虚な表情を浮かべた。


 その姿は、今にも風に飛ばされそうなほど脆いものに思えた。


 僕は隣に腰を下ろすと、彼女と同じようにぼんやりと景色を眺めた。


「…………」


「どうして何も言わないの?」


「君が、何も言わないから」


「私、あなたにひどいことしたかも」


 そう言って彼女は俯くと、「夢だと思いたいけど、テレビの画面越しみたいに眺めた光景が頭から離れないの」と震える声で話した。


「きっと、悪い夢だよ」と僕は答えたが、彼女はなおも独り言のように続けて、「あなたにはもう顔を合わせられないって思った」と言った。


 少し怯え様子でこちらを覗いたその瞳は、昨晩の遅くに僕を起こしにやって来たナナのものだった。


「僕は何も覚えてないよ」と答えると、僕は不器用ながら笑みを浮かべた。


「朝食がもうすぐできるってさ。あの人は待たせると厄介だ」


「……うん」


 室内に戻った僕らは三人で食卓を囲み、朝食を摂った。今朝は何を食べても味を感じない。未だ夢の中にいるような心地だった。


 十分に睡眠をとった様子の巻島は一人饒舌に朝食のレシピについて語り、こだわりの自家製パンについて味の感想を求めてきたが、彼女も僕もうわの空で、ほとんどは聞き流すか、適当な相槌を打って応えていた。


「申し訳ないが、今日は車は使わせてもらうよ」


 巻島はキッチンで洗い物を済ませながら並んで座る僕らを眺め、「二人で海岸を散歩してきたまえ。夕方までには戻るから、帰ったらまた三人で食事をしよう」と笑顔で言った後、僕を指差した。


「君は今晩も泊まっていくだろ? もう少し傷の具合を診る必要もあるしね。ゆっくりするといい」


 僕は相槌を打ちながら、隣に座るナナをちらりと見遣った。上機嫌で片付けを済ます彼に対し、彼女は心底冷ややかな視線を送っていた。


 巻島が診療所を出て行くと、僕らは何となく言われた通りに海へ向かった。歩いて森林を抜け、長い坂道を下るとすぐに海岸が目に入った。近くだと聞いていたが、これほど目と鼻の先にあるとは思ってもみなかった。


 浜辺には今日も人の姿は見当たらない。僕らは並んで辺りを徘徊し、昨日と同じように階段に腰掛けた。雨上がりのせいか、空気がからっとしていて潮風が心地良かった。


「あの人に話さないでくれてありがとう」


 隣に腰かけてすぐ、彼女は海を見ながら囁くようにそう言った。


「何のことかな?」と僕が尋ねると、彼女は視線をこちらに向け、「もう気づいてるんでしょ? 私は病気なの」と言った。


「あの人にはパニック障害って言われたかもしれないけど、ほんとは違う……」


 僕は黙って彼女を見つめていた。正直聞きたいとも思わなかった。こんな素晴らしく天気の良い日に、心地良い風に吹かれながらするべき話ではない。


 けれど彼女は僕の気持ちを知る由もなく、自分の病気について話し始めた。


「一人なんてものじゃないの。複数の私が私に変わって、私のように振る舞って私の真似事をする。その子達が何をしているのか、私は身体の中から暗い操縦席に座ってるみたいに眺めてるの。時どき目隠しをされたように画面がシャットアウトされちゃう時もあって――」


 彼女は一息にそこまで話すとうずくまるように身体を丸め、身震いしながら俯いた後、続きを話し始めた。


「目を覚ました後で何となく覚えている事もあれば、完全に記憶が飛んじゃったりもする。最近はしょっちゅう入れ替わりが起こって、その子達のすることにもだんだん手が出せなくなってきてるの。自分の身体なのにね……。私、自分が怖くて仕方がない」


 本当は彼女と二人で気ままに過ごせればそれで良かった。彼女は嫌なことを忘れ、僕は見て見ぬ振りをする。それで丸く収まればと思っていた。


「巻島先生には、どうして相談しないの?」


 僕がそう問いかけると、彼女は青ざめた表情で僕を睨みつけ、「あんなの先生なんかじゃない!」と声を荒げた。


「医師免許を持ってるだけの、ただのナルシストよ。あの人は私を救いたいんじゃなくて、自分が救われたいの」


 たとえ知らぬふりをしても、問題の根本が解決するわけではない。そんなことは分かってる。けれど、僕は……。


「独りよがりなところはあるにせよ、先生なりに君を救いたいと思ってるはずだよ」


「ううん、違うの」


 彼女はゆっくりと左右に首を振り、「今さら私が何を話したところで、あの人はきっと変わらない。自分の診察が間違ってたことになるもん」


「そんな身勝手な理由で、患者を危険な目に遭わせたりしないはずだよ」


「だって……だって……!」


 俯いて体育座りをした彼女は、肌に爪が食い込むのではないかというほどに二の腕を強く掴んでいる。


 やがて思い出したように顔を上げると僕の方を向き、「そうよ! あなたを運び込んだ時のことも、今朝になって思い出したの」と声を上げた。

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