第34話
わずかに首を傾げた状態のほっそりした体躯。それは遠目に見ると、奇妙なバランスで吊るされた操り人形のように思えた。
寒気を覚えた僕は肩を強ばらせてそちらを凝視していたが、その影は足を引きずるようにしてじわじわと部屋の中に入ってきた。
「ナナ?」
スタンドライトの灯りが届く範囲まで来てその影が彼女であることをようやく認識できた僕は、ほっと息を吐きながら肩の力を抜いた。
彼女の肩には一眼レフカメラがぶら下がっており、それを見た僕はファイルに視線を落としてページを捲りながら、先ほどのカルテを探した。
「ずいぶん本格的なカメラだね」
――返事はない。
僕はファイルを片手で押さえ、顔を上げた。
彼女はいつの間にか音も立てず僕の目の前に立っていた。
背筋に一瞬ヒヤりとしたものが走ったが、肩からカメラを下ろした彼女は片手でそれを持ちながら僕の前に差し出した。
「わざわざありがとう」と言って僕は手を伸ばしたが、彼女は寸前のところでひょいと躱し、口元を歪めた。
「ねぇ。もっとお話しようよ。あなたはぼくのこと、どう思ってる?」
「…………」
ぼく? 聞き違いだろうか。
「君のこと? それはまだよく分からないな」と答えながら僕は再び手を伸ばし、「カメラを貸してもらっても良い?」と尋ねた。
けれども彼女はカメラを渡す気配がなく、代わりに『ククッ』と奇妙な笑い声を発した。
「そんなのどうでもいいじゃん。ぼくは、あなたのことがもっと知りたい」
そう言って彼女がこちらへ手を伸ばしたので、僕は咄嗟に一歩後退った。先ほどまでのナナとは、明らかに様子が違う。
「君は、本当にナナなの?」と僕が尋ねると、彼女は艶かしい表情を浮かべ、「なに言ってるのさ? ぼくはナナだよ。あなたの大好きな!」と言って唇を舐めながら、絡みつくような視線を送った。
「ねぇ、ぼくのことをどう思ってるか言ってみなよ。二人でどんなことがしたい? 痛いこと? それとも、厭らしいこと?」
そう言って顔を近づける彼女から距離を取りながら、「どうして、そんなことを聞くの?」と僕は尋ねた。
すると彼女は苛ついた様子で頭を激しく掻きむしり、「あぁ、もう……。ぼくが聞いてる番なんだから、質問に答えなよ!」と一歩ずつじわじわ距離を縮めようとしている。
「悪いけど、君の質問には答えたくない」僕は彼女を睨みつけ、「浜辺で水筒に睡眠薬を入れたのは、君の仕業か?」と問いかけた。
彼女は僕の言葉に一瞬だけ驚いた表情を浮かべたが、すぐにニタッと口元を歪め、続けてこちらを鋭く睨み返した。
「どうせあんたも、この子にひどいことするんだろ」
この子? 一体どうなってるんだ……。
「ひどいことなんてしないよ。ナナは友達なんだから」と僕は答えたが、彼女は僕の言葉に耳を傾ける様子もなく、狂気の視線を送り続けている。
息を荒げて距離を詰めようとしながら失敗し、またも頭を激しく掻きむしった。
「親でもあんな……あんな、ひどいことしたっていうのに!」
彼女の怒りに呼応するようにして窓外では稲妻が走り、激しい雷鳴音が轟いた。その瞬間、彼女は何事かを呟いていた。
「……っくの……なっ……」
轟音が邪魔で上手く聞き取れない。耳を澄まして続きを待ったが、彼女は素早い動きで掴みかかってきた。僕は襲いかかる彼女の両腕を掴み、地面に押し倒した。
「ぼくのナナに……、手を、出すなっ!」
ものすごい力だった…。僕は彼女の身体に跨ると上から体重を乗せ、力いっぱいに押さえつけた。
彼女は低く濁った叫び声を上げていたが、押さえ続けていると徐々に腕から力が抜けていくのを感じた。それから突然、糸が切れたように静まり返ると彼女は静かに寝息を立て始めた。
「さすがに、これが限界か」
どうにかしてナナをソファまで運んだ僕は地面に座り込み、荒れた息を整えた。寝苦しそうに時おり顔をしかめる彼女は、ひどく汗をかいていた。
僕はパジャマの袖で彼女の額の汗を拭い、仕方なくそのままソファで寝かせておくことにした。
室内の乱れた箇所を元に戻していると、彼女が先ほど運んできた一眼レフカメラが机の下に転がっていた。運良く衝撃を避けたのか、異常はなさそうに思えた。
僕は先ほどのカルテをカメラで撮影し、元の棚へ戻すと再び彼女の様子を確認した。今では気持ち良さそうな寝顔を浮かべている。
出会った瞬間から感じていた、『ナナ』という存在に対する漠然とした違和感。彼女が今までにとった不可解な行動や、断片的な記憶の欠落。それに、先ほどの奇妙な出来事。
それらを思い返すと、僕の中にある一つの結論が導き出された。
「パニック障害なんかじゃない」
おそらく彼女は、解離性同一障害だ。
多重人格障害とも呼ばれるその病は、過去の重い記憶や切り離したい感情の影響で別人格を生み出すと以前に本で読んだことがある。
巻島のアプローチは、根本から間違っていたのかもしれない。
そばできちんと観察し、関わりを持ってさえすれば誰だって気づけたはずなのに……。患者のストレスにならぬよう距離を置くという彼のポリシーがその邪魔をしたのか。
あるいは彼女のある一面を観察するうち、発作の症状からパニック障害と決めつけて。
少なからず違和感を覚えていたはずだ。それなのに一度判定を下した自身の診断を疑うことを拒むばかりに……。
この件を彼に話すかどうかは、後で考えよう。今の僕にはそこまでの余裕がない。申し訳ないとは思いつつ、僕は彼女を一人ソファに残して部屋を後にした。
自室に戻った僕は、机の上にカメラを置くとバーボンの蓋を開けて瓶のまま流し込んだ。そのままベッドに倒れ込むと、先ほど寝転んだ時とは異なり、まるで獣の血肉の中へ押し込まれていくような生臭い感覚を覚えた。
なんて、ひどい夜だろうか。
窓の外では、未だ土砂降りの雨が振り続いている。それは、彼女の涙を思わせた。
彼女の両親はどこにいるのか。誰か手を差し伸べるべき者は? 妹のように親しげな眼差しを送ってくれた僕の知る彼女は、目を覚ますだろうか。
いっそこの雨とともに、今夜の記憶がすっかり流れ去ってしまえばどれほど救われるだろうか。
「母さん……僕は……」
混沌とした意識のなか、僕はそう呟いた。暗闇に漂うその言葉は、誰にも届くことなく消えていった。
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