第33話

 遠方から、声が聴こえてくる――。


 それはおよそ視界のうちに捉えられる距離感であるにも関わらず、透明な膜越しのように朧げで、屈折した音が僕の耳元へ届く頃には囁き声のように弱々しい。


「……っめさん……なつめさん」


 今度は耳元で声が聞こえた。目を開いて辺りを見回すと、暗闇の中にくっきりと浮き上がる色白の女の子がこちらを見下ろしていた。


 ナナがいる。本物だろうか?


 上体を起こした僕は、ベッドに腰掛けて彼女をじっと見つめ返した。


「…………」


「どうして何も言わないの?」


「君が、何も言わないから」


「おかしな人」と笑いながら、彼女は僕の隣に腰を下ろした。シャワーを浴びてきたのか、全身から僕と同じ香りが漂っている。


 よく見ると服装もパジャマに変わっていて、少し大きめのダボっとした様子が華奢な彼女によく似合っていた。


「体調はもういいの?」


「うん、寝たらすっきりした」


「君は、昼間のこと――」と僕が言いかけると、彼女はきょとんとした表情を浮かべ、「昼間?」と首を傾げた。


「……いや。何でもないよ」


 彼女はまるで子供みたいに僕に擦り寄ると、「私、あなたがここへ来てくれて嬉しい」と言って笑顔を見せた。


「一緒に来たんだっけ?」と僕が惚けたふうに尋ねると、彼女はぶすっとした表情を浮かべ、「何言ってるの。あなたはいつの間にか眠っちゃったんじゃない」と不平を漏らすように言った。


「あぁ。そうだったね」


「まだ寝ぼけてるんでしょ?」


「そうかもしれない」

 

 薬を入れたことは、覚えていないのだろうか。それともそう思い込んでいるのか。


 どちらにせよ、今の彼女はパニックを起こす前の状態に戻っているようだった。ベッドに腰掛けたまま宙に浮かせた両足を無邪気にバタつかせ、室内をゆっくりと見回している。その危うげな表情に僕は、思わず目を奪われてしまう。


 彼女の瞳は、暗闇にぽっかりと浮かぶ淡い光だ。それは夜空に浮かぶ月のようにも、水中から見上げる太陽のようにも思えた。


 僕の視線に気づいた彼女はこちらを見ながら「なに?」と首を傾げたが、僕は言葉を濁して思わず目を逸らすと、立ち上がって机の上に置いた腕時計を眺めた。


 午前二時を少し回ったところか。彼女についてはおかしな所も見られないし、今は様子を見ることにしよう。


「先生はもう眠ったかな?」


 僕には夜のうちに、確認しておきたいことがあった。


 ナナは首を傾げ、「先生?」と呟いている。


「巻島さんのことだよ」と言うと、彼女は納得したように肯き、「あの人ならとっくに眠ったと思うわ」と答えた。


「シャワーを浴びた後で一階にも寄ったけど、電気は全部消えていたもの。今頃はおっきないびきをかいて眠ってるんでしょ」


 そう話す彼女には、どこか煩わしさのようなものが感じられた。


「下に行って少し調べたいことがあるんだ」


「私も行く!」


 嬉しそうに立ち上がった彼女はこちらへ詰め寄りながら、僕の瞳を覗き込んだ。


 あまりの至近距離に僕は思わず目を見開いたが、その後に続けて彼女が、「一人は寂しいから」と呟いたことで自然と表情が解れ、「うん、一緒に行こう」と答えていた。


 音を立てないように気を配り、僕らは一階の各部屋をひと通り確認してから巻島と昼間に会話した部屋へ入った。ナナは僕の後ろに続き、そわそわした様子で必死に興奮を抑えている。


「何だか、探検みたいっ」


「人喰い植物くらいは栽培されてそうだね」と僕が冗談っぽく答えると、彼女は眉間に皺を寄せ、「ほんとよ! あの人って、ほんと趣味が悪いの」と言った。


 念のため部屋の電気はつけず、机の上に置かれたアンティーク風のスタンドライトのみを灯してファイル棚を眺めた。


 整理をやり直した跡が見られ、今では元通りに緩やかな傾斜を描いている。僕は順序を変えないようになるべく慎重にファイルを取り出し、一冊ずつ中身を確認していった。


 いくつか調べてようやくカルテの収められたファイルを発見し、一枚ずつ順に捲っていくと、途中でナナのカルテがあった。


 彼女は背後で思わず息を呑み、声を発しかけたが、僕が素早くページを捲るとそのまま静かに吐息を漏らした。


「……あった」


 葉山蓮介と記載されたカルテのページを見つけた僕は、すぐに詳細を読み進めた。


 葉山蓮介。五十歳。カルテの作成日は今から六年前になっている。


 診察内容の欄には、『時おり、幻聴や幻覚が起こる』と記載されていた。生年月日や年齢も一致している。


「夏目さん。それは誰なの?」


 ナナは肩の横からカルテを覗き込んだ。僕はカルテを見つめながら、「この人の名前が、僕の父親と同じなんだ」と答えた。


「本人かどうか確かめたくて見に来たけど、ここに書かれた情報だけじゃ、さすがに分からないな」


「そんなの、お父さんに直接聞いてみれば?」と彼女が言ったので、僕は幼少期に父親が家を出て行ったきり、行方が全く分からなくなっていることをナナに話した。


「そんな……私……」


 ナナはひどくショックを受けているようだったが、そんな彼女に向けて微笑みながら、「ずっと前のことだから、僕は気にしてないよ」と僕が言うと、彼女は俯いて小さく頷いた。


 カルテに記載された内容によると通院期間はさほど長くなく、すぐに別の病院へ移ったようだった。備考欄には転院先の病院が記載されている。


 僕はポケットから携帯電話を取り出し、この情報を保管しておこうかと思ったものの、今の彼は活動限界を迎えてどのボタンを押しても反応がない。


「そうだった……」


 紙を使ってメモを残す手もあるが、この部屋の物に触れると神経質な彼のことだからすぐに気づいてしまいそうだ。他の客室やリビングに何かあっただろうか。


「私、カメラを持ってるわ!」


 彼女に尋ねたところ、そのような回答が返って来た。ナナはそのまま足早に部屋を出て行き、自室に向かった。まぁ、それでも構わないか。


 仕方がないので、僕はこの部屋で彼女が戻るのを待つことにした。机の後ろではいつの間にか降り出した雨が窓を打ち、時おり強い風が吹くと窓枠が不気味な音を立てて軋んでいる。


 僕は窓の方を向き、机に凭れながらカルテに記載された内容についてあれこれと考えを巡らせていたが、ふと気がつくと、前髪に触れる自身の姿が窓に映っていた。


「……藤沢のやつ」


 窓の外で稲光が何度か点滅し、やや遅れて耳障りな雷鳴音が室内に響き渡った。


 その音に混ざって入口の方から「ギギィ…」という音が聞こえて咄嗟に振り返ると、――その刹那、稲妻が瞬くように照らした光の中にぽつんと人物のシルエットが映し出された。

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