第32話
食事を済ませた僕らは、ソファで寛ぎながら煙草を吸って過ごした。僕としては早いところ部屋に帰って休みたかったのだが、ご馳走して貰ってすぐさま退散するのも失礼かと思い、しばらく付き合うことにした。
巻島は精神科医になってから患者を知るために煙草を吸い始めたらしい。他にコカインやマリファナなども経験済みだと言うが、依存するようなことは絶対にないと本人は語っている。
「バーボンを開けよう!」
唐突に立ち上がった彼はキッチンへ向かい、「あと、葉巻を試す気はないか? 上等なのが入ったんだ」と言った。
僕はバーボンには賛成したが、葉巻は丁重にお断りした。どのみち煙草も手持ちの分を吸い終えたらやめるつもりなのだから。
「僕はクラッシュアイスを入れるが、君はどうする?」
「そのままで大丈夫です」
巻島は氷の塊をわざわざアイスピックで削り、バーボンとグラスを手に戻ってきた。
次いで液体をグラスに注ぎ、ようやく腰を落ち着けたかと思えばまたすぐに立ち上がり、グラスを片手にいそいそとレコードプレーヤーの前へ歩いて行った。
彼が流し始めたのは、車内でナナが聴いていたものと同じレコードだった。誰かの奏でるショパンのピアノソロで、弾き方の特徴が非常に酷似している。
「この出会いに乾杯しよう!」
巻島は僕の前まで早足に戻ってくるとグラスを当て、ソファに腰掛けながら上機嫌で葉巻に火をつけ始めた。
「この部屋の物は、彼女も自由に使ってるんですか?」
僕がそう尋ねると、彼は室内を眺め、「あぁ、そうだね。自由に使って良いと伝えてある」と答えた。
「最近だとバーボンの飲み方を教えた気がするな。彼女はね、一つの物が気に入るとそればかりで、他の物にはあまり興味を示さない傾向にあるんだよ」
初めて出会った時、彼女がバーボンの事しか知らなかったのはそういう理由か。それにしたって、極端にも程があると思うが。
互いに何杯かアルコールを流し込み、彼はグラスを空ける度にクラッシュアイスを追加しにキッチンを往復していた。結構な杯数を重ねたようにも思えたが、今日はちっとも酔いが回らない。
彼の方はすでに身体をふらつかせ、垂れた目つきはいっそう締まりがなくなっている。焦点のおぼつかない視線は僕の方を向いているようで、実のところ何も見てはいないように思えた。
今なら何か、聞き出せるかも知れない。
「こちらへ診察に来る方は、やっぱり女性の方が多いですか?」
僕がそう尋ねると、彼は頭をふらつかせながら天井を眺め、「いやいや、男性の患者さんだって多いよ。むしろ精神科医になってからは、男性の方がより多く接している気がするな」と言った。
「そうなんですね」と答えた僕は、「今まで診療された方はだいたい覚えているものですか?」と続けて尋ねた。
すると彼は自慢げに胸を張り、「もちろんだとも!」と声を上げた。
「へぇ、ちなみに葉山蓮介という名前に心当たりはありますか?」と勢いで尋ねてみたところ、やはり彼の警戒心は侮れず、垂れた目つきは瞬時に鋭いものへと切り替わった。
「葉山蓮介。その男がどうかしたか?」と、彼は威圧的な口調で僕に尋ね返した。
「……いえ、別に」と僕は言葉を詰まらせたが、巻島は畳み掛けるように、「僕はそんな紳士には出会ったこともないし、それについて話をすることは何も持ち合わせていないね!」と早口に捲し立てると、グラスの中身を勢いよく飲み干した。
彼は嘘をついている。だが、この辺りが潮時か。
僕は寝酒に残りを貰い受け、部屋に退散することにした。彼は僕に対してこれ以上言及をしなかったが、「余韻に浸りたい」と言ってソファでくつろぎ始めた。
「ご馳走様でした」と食事の礼を述べ、僕がリビングを去っていく背後では、ナナの大好きなあの曲が流れ始めていた。
二階に上がり、途中で彼女の寝室の前を通ったが扉の向こうからは物音一つ聞こえてこない。
客室に戻ると、僕はカーテンを開いて外を眺めた。辺りは暗闇に包まれており、窓に反射した僕の間抜けな寝間着姿が映っている。
窓を開くと、静まり返った森の奥からは蝉の鳴き声も聞こえて来ず、月明かりすら感じられない。纏わりつくような湿気を帯びた外気はぼんやりと濁ったように重く、今にも雨が降り出しそうだと周囲の者たちが僕に向けてメッセージを送っているように感じられた。
――蓮水菜奈。
彼女はあの男のもとで五年も治療を受け続けている。その間ずっとここに滞在しているのか、それとも時々家には帰れているのか。
こんな息の詰まる場所にいて、寂しくはないだろうか。
彼女には父親がおらず、母親は多額の治療費を払い娘をここに預けている。一人で工面しているのか?
いや、それを可能にする相手を持つ可能性は高い。彼女をこちらに滞在させるのは、娘を想っての行為か。それとも、体の良い厄介払いだとしたら……。
たまには、会いに来てくれるのかな。
ベッドに横たわった僕は、巻島のカルテにあった『葉山蓮介』という名前を思い出していた。
あれは本当に、あの人なのか。
しかしながら、心療内科に通っていたなどという話を今まで母から聞いたことがなかった。
早いところ、仮眠を取ろう。
目を瞑ると、まるで引力に惹かれ合うように瞼は開かなくなった。やがて深い闇から伸びた睡魔の手により、僕の身体は闇の底へと引きずり込まれていった。
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