第29話
彼が戻るまでの間、僕はソファに腰掛けたまま室内を見回していた。ローテーブルはガラスの天板が綺麗に拭かれ、下の空間には建築、美術、アート系の情報誌が平行に並んでいる。
窓際の机上も綺麗に整理されているようで、高さのあるものから順に本立てに収まり、なだらかな傾斜を描いていた。
厄介な人に出会ってしまったものだ。彼の面倒なところには、どこか母が重なって見える。彼女とは少し違ったタイプの几帳面さではあるものの、他人にとって迷惑なことには変わりない。
彼の話からすると、ナナは別室に居るのだろうか。どうして僕に薬なんか。
数分経ったのち、彼は湯気の立ったマグカップをトレーに乗せて戻ってきた。ついでにビスケットとスリッパも準備しており、それらを素早くセッティングしながら「お待たせして申し訳ない」と言ってようやくソファに腰掛けた。
「適当なものを出すのも良くないと思ってね、新しく淹れてきたんだ。どうぞ、冷めないうちに飲んでくれ。スリッパもなかったね。何から何まで至らなくて本当にすまない。参ったよ」
僕は差し出されたスリッパを履くと、彼が熱心に見つめるなかでコーヒーを飲みながら話の続きを待った。
「よしっ。ではお次は、彼女がなぜ君に睡眠薬を飲ませたかという話題で良いかな?」
「はい」
「僕の経験から察するに、彼女には収集癖があるようなんだ。気に入った物を自らの手元に置きたがる。これは病気とは関係なく、極めてパーソナルな問題だと思っているけれど、君はそれについて何か心当たりはあるかい?」
「僕以外にも、今までに人を連れてきたことが?」
「今は僕が質問しているところなんだけどな」と巻島は不愉快そうにぼやきながら、「いいだろう。人間を収集してきたのは君が初めてだ。これでどうだい?」と言った。
「ありがとうございます」
僕は丁寧に頭を下げ、「心当たりというほどではないですけど、ナナとは以前に一度会ってるんです」と答えた。
「会うのは、今日で二度目になります」
「どちらも偶然に出会ったのかな? それとも、今日は待ち合わせて?」
「偶然です。どちらも」
彼女は僕に向かい、『会いたかった』と口にしていた。それが収集癖に関係しているのかどうかは不明だが、ひとまずこのことは巻島に話さないでおこう。彼女の個人的な事情を僕から語るのはどうかとも思うし、何より目の前の男はどうにも虫が好かない。
「なるほど」
俯いて顎に手を遣っていた巻島は、顔の前で指を二本立てながら、「二度も偶然に遭遇した君にどこか運命的なものを感じ取り、いつもの収集衝動に駆られた。そして薬を飲ませたまでは良かったものの、倒れた君を見ると気が動転してしまった、と。うん、そうかもしれない」
彼は頷きながら目を見開き、「よしっ。二人の話を組み合わせて一つの結論を導き出せたよ。ありがとう!」
「もう少し、質問いいですか?」
僕がそう尋ねると、彼は上機嫌にコーヒーを啜りながら、「ん? 何かな?」と応じた。
「ナナが乗っていた車は、巻島さんのものですか?」
「そうだね。あれは僕のものです」
巻島は大きく肯き、「君を連れて帰る時には僕が運転をしたんだ。今は庭先に止まっているよ」とレコードプレーヤーの辺りを指差した。
「ナナの病気について教えてください」
「それは守秘義務というものだ。家族でない者には教えられない」
「では、『ナナ』というのは本名ですか?」
すると彼は小さく頷き、「そうだね。カルテ上でも『ナナ』という名前を用いている。だが、ここまでだ。これ以上は教えられないよ」
「では最後に、ナナは今どこにいますか?」
「それなら教えてあげられる。彼女は今――」と巻島が言いかけたところで、衝撃音と共に扉が勢いよく開け放たれた。
振り返ると、そこには頭を抱えた彼女の姿があった。
「ぎゃあああ!」と叫び声を上げながら彼女は部屋の中で暴れまわり、窓際の机上に置かれたペン立てや書類をぶちまけた。
「大丈夫だ。たまに起こる発作のようなものでね」
「発作?」
巻島は彼女の身体を抱き抱えると慣れた様子で宥め始めたが、彼女がそれでもじたばたと暴れるので歪んだ笑顔を浮かべてこちらを向き、「外の空気に触れさせれば、すぐ元通りになるはずだ。失礼するよ」と言ってそのまま彼女を外へ連れ出した。
二人の姿が見えなくなると、思いのほか動揺した僕は床に散らばった書類や本を無意識のうちに拾い始めていた。
中には彼が担当した患者のカルテも見られ、僕は部屋の入口を眺めて誰も来ないことを確認すると、リストから『ナナ』という名前を探し始めた。
彼が言った通り、数はそれほど多くなかった。
「……これか」
カルテに記載された名前は、
「彼女が、パニック障害?」
ファイルには小さな用紙が挟んであった。巻島が書いたメモだろうか。走り書きでこう記されている。
『パニック障害の症状に規則性なし。広場恐怖症の自覚症状も見受けられない。双極性障害へのステージ変化、もしくは併発の疑い有り』
僕はカルテを本棚にしまい、できる限り彼の秩序が崩壊しないよう机の上を整理した。片付け終えてからふとソファの辺りに視線を遣ると、もう一枚書類が落ちているのが見えた。
僕はそこまで歩いていき、書類を拾い上げた。その瞬間、視界の端に『葉山』という文字が横切り、改めて書類を眺めるとそこには『葉山蓮介』という名前が記載されていた。
そんな、まさか……。
カルテの詳細に目を通そうとしたところで、廊下から足音が近づいてきた。僕は急いで適当なファイルに書類を挟み、ソファの方へ戻った。
慌てた様子で戻ってきた巻島は部屋の中を覗き込み、「夏目くん。ちょっと良いかな?」と言った。
「申し訳ないんだが、彼女が君に会いたいと言って聞かないんだ。少しだけ付き合ってくれないか?」
「あ、はい」
彼に続いて部屋を出ると、僕は玄関に揃えて置かれた自分の靴を履き、診療所の外へ出た。
視界の先は辺り一面が森に囲まれている。蝉の鳴き声が四方八方から聞こえ、まるで交響楽団のように立体的な爆音を響かせているが、肝心の発生源はどこにあるのか特定ができない。
振り返って診療所の外観を眺めると、洒落た別荘地といった雰囲気が甚しく、二階の屋根には煙突がついている。玄関を出た右側には、彼女が乗っていたビートルが転がっていた。
「先ほど鎮静剤を打ったから、だいぶ落ち着いているとは思うんだが」
巻島の言葉に振り向くと、ウッドデッキになったバルコニーには木製のベンチが置かれており、そこに腰掛けて項垂れているナナに彼は近寄っていった。
「あぁ、夏目さんだぁ」
後に続いた僕の存在に気づくと、彼女はまるで幼い子供のように無邪気な表情を浮かべながら、眠たげな瞳でこちらを見つめてきた。
彼女は腕を引っ張るとベンチの隣に僕を座らせ、肩に頭を凭せかけてすぐに柔らかな寝息をたて始めた。
「もうすぐ日も暮れる。今夜はここに泊まっていくと良い。部屋には余裕もあるしね」
早口にそう話すと、巻島は玄関に向かって歩きながら、「後でまた様子を見に来るから、その時まだ寝ているようなら彼女を一緒に部屋まで運ぼう。いいかい?」と尋ねた。
僕は小さく頷き、足早に去っていく彼の後ろ姿を見送った。
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