第30話

 巻島が去ると、姿なきオーケストラに囲まれた僕は前方に広がる森林を見つめていた。


 しばらくして彼女の様子を見ようと思ったものの、肩に乗った頭のおかげで身動きがとれず、表情を読み取ることはできない。呼吸するたび上下に身体を揺らし、時おり指先が痙攣しているのが見えた。


 先ほど巻島が発作と呼んでいたあれは、パニック障害の症状だろうか? 今まで僕が目にしてきた彼女の挙動には、そんな兆候は一切見られなかったというのに。あの夜も、今日の昼間だって。


「……お母さん」と呟くと、彼女は僅かに寝返りを打った。おかげで肩にかかる負荷が減り、身体に自由が戻ってきた。


 寝顔を眺めると、彼女は深い眠りに落ちた森の姫のように澄ました表情を浮かべている。


 気がかりなことが全くなかったという訳ではない。初めて出会った際に彼女が見せた妖艶な仕草や表情、その姿は今の彼女とはまるで違っていた。


 蝸牛の件に関しても街に行った覚えがないと話しており、砂浜で僕が倒れる直前にも彼女は妙な行動を取っていた。


 この病には、何か発動条件のようなものがあるのか?


 幸い、ポケットに入れた煙草の箱はそのままだった。そこから一本取り出して口に咥えながらさらにポケットを探ると、案の定ライターも見つかった。


 煙草に火をつけて大きく吸い込むと、彼女の方へ煙が行かないよう僕は空に向かって息を吐き出した。


 わた雲がいくつか浮かんでいる。その中には、兎のように長い耳をしたものが見られた。


 自宅に連絡を入れるべきだろうか。けれど最近は無断外泊もたまにしているし、彼らは僕のことなど気にかけていないかもしれない。


 藤沢にだけは、今の状況を伝えておきたいと思った。僕は反対側のポケットを探り、携帯電話を取り出した。


「あぁ、そうだった」


 いくらボタンを押しても液晶は真っ黒なままで、電源も入らない。昨晩に充電を忘れたせいでバッテリーが切れてしまったようだ。


 仕方なく僕は煙を深く吸い込むと、風に流される兎を見て過ごした。


 そうこうする間に、日が暮れ始めた。辺りは徐々に光を失い、森林周辺の空が茜色に染まっていく。ここからでは姿の拝めない太陽も、どこかでひっそりと沈みかけているのだろう。


 玄関の扉を開く音が聞こえて視線を遣ると、巻島が様子を見にやって来るのが見えた。


「どうだい? 彼女はずっと眠ったままか?」と、先刻よりも落ち着いた様子の彼はゆったりとした口調で尋ねた。


「そうですね」と僕が答えると、彼は薄暗くなり始めた空を眺め、「よし、彼女を部屋まで運ぼう。二階になるが何とかなるだろう」と言った。


 二人掛かりで彼女を抱え、二階にある寝室まで運び入れたが、眠り姫はそれでも目を覚ます気配がなかった。


 彼女をベッドに寝かせた後、申し訳ないと思いつつ寝室を見回すと、他の部屋に比べて明らかに生活感があった。ドレッサーの上には化粧品類が乱雑に置かれ、床の上に服が脱ぎ散らかされている。


 好きに出入りさせていると巻島は話していたが、ここは本当に彼女の住まいのように思えた。


「これは……」


 壁にはいくつかの写真が貼られていた。空や森、街などの風景を写したものもあれば、人物や植物など被写体は様々で、先ほど眺めた海の写真も見られた。


「彼女は近頃カメラに凝っているんだよ。僕のお古をあげたんだが、それが妙に気に入ったらしく、出かける際にはよく持ち歩いているね」


 巻島はそう言うと、先に部屋から出た。僕はしばらく写真を眺めてから部屋を後にしたが、扉を閉めると廊下で待っていた彼はこちらに向かって手招きしながら、「部屋に案内するよ。すぐにシャワーを浴びるといい」と言った。


「そのあとで夕食にしよう。これでも結構自炊するんだ。さぁ行こう!」


 案内された客室はビジネスホテルのように簡素な装飾だったが、ベッドのシーツはしっかり整えられ、その上に着替えやタオルが畳んで用意されていた。いつ来客があっても良いようにしているらしく、未使用の歯ブラシもストックが多数用意されていた。


 シャワールームへ向かうと、いかにも高級そうな容器に移し替えられたハンドソープやシャンプーが並び、使ってみると雑草のような匂いがした。頭の傷口はすでに塞がっているようで、包帯を外した際にパリパリとした血の塊が髪の毛の間から落ちた。


 パジャマに着替えて指定された一階のダイニングに向かうと、巻島はキッチンで食事の準備を始めていた。


 リビングとダイニングがひと繋がりになった空間には先ほどのバルコニーへ通ずる大きな窓が見え、広々として開放感に溢れている。リビングにはソファや暖炉に加え、ここにもまたレトロなレコードプレーヤーが置かれていた。


「やぁ。来たかい。そこへ座りなよ」


 トングを片手に巻島が指差した食卓には、四つの椅子が並んでいた。詰めれば六人は座れそうなほど広い卓上にはすでにいくつかの料理が用意されている。


 トマトとモッツァレラのカプレーゼ、生ハムとピクルス、彩り豊かなシーザーサラダ。随分と本格的な夕食に僕は正直驚かされたが、隣に見えるアイランドキッチンでは今もなお、巻島が着々と調理を進めている。


「ビールで良いかな? ワインも用意しているが」


「あ、はい」


 巻島は巨大な冷蔵庫から大瓶のビールを取り出し、グラスと共に僕へ手渡した。


「二人分だから、メインディッシュも一緒に仕上げてしまうよ」


 そう言うと彼はパスタのゆで鍋をチェックしながらフライパンにパスタソースを準備し、別のフライパンではステーキを焼いていた。


 僕はビールとグラスを食卓に置き、彼が調理を終えるまでの間にリビングを見て回った。調度品はおよそ贅を尽くしたものばかりで、部屋には目立った汚れも見られない。


 これ見よがしに置かれた壺や器などの骨董品は、きっと僕には想像もつかないほど高価な品なのだろう。


 盛りつけを終えたシェフはてきぱきとした動作でおおかたの洗い物を済ませると、食卓へやって来た。

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