第28話
目を覚ますと、焦げ茶色の天井が広がっていた。頭部に鈍い痛みを覚え、触れてみると何やら包帯のようなものが巻かれている。
消毒液の匂い。……病院?
上体を起こして辺りを眺めたものの、視界がぼやけて何も見えない。白いシーツの敷かれたベッドに腰かけた僕は、脇にあるサイドテーブルの上に眼鏡を見つけ、それを掴み取った。
視力が戻り再び周囲を見回すと、そこは病院というより保健室といった感じに近かった。山小屋のような造りをしたこの空間には引き出し付きのデスクと肘掛のついた木製のソファチェア、それに三段のガラス棚が見られた。
立ち上がって壁際に置かれたガラス棚を眺めると、様々な医療用の薬品が取り揃えられている。やはりここは、簡易的な治療室として整えられた部屋のようだ。
扉に鍵は掛かっておらず、ノブを回すと廊下の先から音楽が聴こえてきた。交響曲のようだが、ひどく大袈裟な演奏に思えた。
廊下に出た僕は、なるべく足音を立てずに演奏の聴こえてくる方へ歩いた。
ほんの少しだけ扉の開いた部屋を見つけ、隙間から中を覗くと白衣を着た男性が窓際の机に向かう姿が見られた。入口を向いて腰掛けているが、俯いて何かを記入しているためこちらには気付いていないようだった。
室内をざっと眺めると先ほどの部屋に造りは似ているが、こちらの方が幾分か広い印象がした。ベッドの代わりにローテーブルとソファが配置され、薬棚の代わりに本棚が置かれている。加えて設置されたレトロなレコードプレーヤーが、例の大袈裟な交響曲を垂れ流していた。
扉をノックすると、白衣の彼は素早く顔を上げ、「やぁ。良かった、気がついたか」と言って口角のきちんと上がったにやけ面を作った。
立ち上がってこちらへ歩み寄るその男は、よく見ると垂れた瞳の片方だけが一重瞼をしている。思いのほか背が高く、すいぶん老け込んでいるように感じられた。
「倒れた時に頭を打ったんだ。出血は大したことなかったけれど、応急手当はしておいたよ」
男は自身の頭を指差しながら、軽い口調でそう言った。「生憎、そっちは専門ではないものでね」
「あの、どうして僕はここに?」
「うん、僕も全てを見ていた訳じゃないからね。情報を整理したに過ぎないんだが、まず君はどこまで覚えてる?」
彼にそう問われた僕は、重たい頭を手で支えながら意識を失う前のことを思い返した。
「……海。海へ行きました。海を眺めて、確か、コーヒーを飲んだところまでは覚えてます」
「うんうん。そこには君以外に、誰かが一緒に居なかったかい?」
「女の子がいました! ナナという名前の」僕は周囲を見回し、「彼女は今どこに?」
「自分の名前は言える?」
「夏目、蛍です」
僕がそう答えると彼は何度か力強く頷き、「うん。記憶の混乱はなさそうだね。彼女の話とも一致している」と言った。
「勝手に拝借してすまないが、これは今のうちに返しておくよ」
そう言って彼が白衣のポケットから取り出したのは、僕の学生証だった。
「まぁ掛けてくれ。順を追って説明する」
彼は部屋の中央にあるソファを指差し、僕は言われるままローテーブルを挟んで向かい合わせに座った。
「まず誤解のないように自己紹介をさせてくれ。僕は巻島と言って、この病院で精神科医を営んでいる者だ。巻物の巻に、島国の島。覚えやすいだろ? 君の知り合いのナナさんは、僕の患者だ」
巻島。車検証にあった名字と同じ人。それより、彼は今何と言った? ナナが患者……?
「先ほどの話から説明をさせてもらうよ」
巻島という男は僕が動揺する姿を気にも留めず、続きを語り始めた。
「君は彼女に貰ったコーヒーを飲んだ直後に気を失い、その場に倒れ込んだ。それで困った彼女は僕に連絡を寄こした。原因は恐らく睡眠薬だろう。彼女に処方したものを君に飲ませてしまったのかもしれないね」
「睡眠薬? それはなぜ――」
「うん、まずは話を聞いてくれるか!」
巻島はきっぱりとした口調で僕の言葉を遮ると、目を大きく見開き、改めて笑顔を作り直した。
「すまない。えぇと、睡眠薬の話からだったね」と言うと、彼は気を取り直すように一度咳払いをした。
「僕に連絡を寄こした時、彼女はひどいパニック状態に陥っていてね、状況を上手く説明できないでいたんだ。切れぎれの言葉から何とか把握した内容と、鞄の中から処方したはずの睡眠薬が消えていたことから、恐らくこれは彼女の仕業だと僕は推測させてもらった」
そこまで話すと彼はしたり顔でこちらを見つめてきたが、僕は無言で小さく頷き、話の続きを待った。
「君が倒れた海からここまではそう遠くない。歩いても行けるし、タクシーを呼べばすぐに着くよ。だから僕は、タクシーを呼んでそこまで向かった。そして君をここまで運び、応急処置を施してベッドに寝かせておいた」
彼は僕の頭へちらりと視線を遣り、「それで今、君はここにいるというわけだ。分かってくれたかい?」と言って一息ついた。
彼が文末にクエスチョンマークをつけたことで、ようやくこちらの番が回ってきたようだ。
僕は頭に巻かれた包帯に触れ、「状況は分かりました。だけど、まだ色々と分からないことがあります」と答えた。
すると彼は嬉しそうに頷き、「うん、その通りだ」と言った。
「今の説明はいわば、湖の外周を回ったに過ぎない。しかしながら、まずは君にとって僕が無害であることを理解してもらい、大まかな内容を把握してもらわないとね。そうでないと君も不安だろう。分かるかい?」
「わかります」
「オーケー。では、次のステップに進もう」
初対面でこの胸のざわつきは、一体何なのだろうか。どうやら彼は秩序を乱されることに不快感を示し、計画通りに物事を進めることにこの上ない喜びを感じるタイプのようだ。
こういった手合いの扱いは心得ている。好きにさせておくのが最善だろう。どうせ他人の言葉に耳を傾けるつもりなどないのだから。
僕はこれみよがしにため息をついてみたが、やはり彼はそれを全く意に介さず、再び語り始めた。
「次は僕が彼女へ薬を処方した理由だ。精神科医だと言ったね? そのことが関係している。彼女はある病にかかっていてね、詳しくは教えられないが、そのため最近ではここで長い間療養生活を送っている。療養と言っても当然好きに出入りできるし、外で何かあれば僕に連絡を寄越すよう彼女には伝えてある。
そもそも診療所というのは名ばかりでね、現在僕は患者をほとんど持たないんだ。ここは僕の別荘地のようなもので、招いた少数の患者だけを重点的に看るようにしている。
彼女は精神的にデリケートな所があるからね、あまり干渉しすぎないようにしている。まさに思春期の子供を扱う父親のような気分さ。フランクな心持ちで接した方が、心を開いてくれるからね。――少し話題が逸れたな、すまない」
「いえ、続きをどうぞ」
「あぁっ! 僕としたことが」
突然声を上げた彼は頭を抱え、「飲み物を出し忘れていたね! 本当に申し訳ない。すぐに持ってくるから、少しだけそのまま待っていてくれたまえ」と早口に言って立ち上がった。
「いえ、僕は別にだいじょ――」
「すぐだ! 一分で戻る」
そう言い残すと、巻島は急いで部屋を出て行った。
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