第27話
「でも、どうして僕に会いに?」
「あら。会いたい気持ちに理由は必要?」
彼女は思わせぶりにそう答えると、片手をハンドルから離して身振りを交えながら、「私はあの日がとってもとっても楽しかったんだから」と言った。
「今思い出しても素敵だわ」
うっとりした表情で前方を見つめる彼女の横顔を眺めながら、僕はあの夜のことを思い出していた。
僕にとっても、あの夜の経験は特別なものとなっている。声が枯れるほど会話し、お腹が痛くなるほどに笑い合った。彼女には少なからず惹かれるものを感じていたし、また話ができたらと思っていた。
けれどそれは全て、藤沢が取り仕切ってくれたおかげだった。彼が手洗いに立つと途端に僕らは気まずくなり、黙って酒を飲んだままやり過ごしていた。彼女と二人きりで会話するのは、今日が初めてのことだ。
「なら、どうして僕の方を――」
「あっ、私この曲大好きなの! 何度聴いても飽きないわ」
彼女は大声を上げてまたも僕の言葉を遮ると、カーステレオの音量を上げた。
「この曲は……」
バラード第一番、ト短調。
作品番号は確か、――二十三番。
ショパンの初期の代表作である。曲中の強弱が激しく、演奏時間も比較的長い。
子供の頃に課題曲として弾いたことがある。細かな部分まで厳しい先生に当たり、その頃の僕は譜面を追いかけることに必死で、音楽を単なる音としか捉えていなかった。改めて先入観なしに聴くと、叙情的で完成度も高く良い楽曲である。
「溜め込んだ気持ちを、終盤で一気に爆発させるのがとっても好き」
彼女は曲に合わせてハミングしながら片手を空中で動かし、ピアノを弾く仕草をしてみせた。なめらかな動きをした細い指先は、まるで精巧なガラス細工のように思えた。
「確かにいい曲だね」
僕がそう答えると、彼女は興奮したようにハンドルを叩き、「それでね、最後もね、すっきりとは終わらないの。何度も焦れったく弾いて、弾いて、――そして、呟くように終わる。とっても人間味を感じさせる曲なの!」
「相当好きみたいだね」と言って僕が笑みを浮かべると、こちらを見遣った彼女はふと冴えない表情を浮かべ、「私もピアノが弾けたら、どんなに幸せかしら」と呟いた。
「あぁ……」
彼女の表情の落差に、ひどく驚かされた。まるで他人の傷口を知らずしらずのうちに抉ってしまったかのような感覚に、僕は戸惑った。
「弾いてみれば、いいんじゃない?」
僕はそう答えながら、彼女の演奏する姿を想像していた。透き通るように美しい指先が奏でるグランドピアノの音色は、きっと水辺の鳥が舞うように優雅で美しい。
「私には、ダメよ。そういう才能はないから」
そう言うと、彼女はうつむき加減に前方を見つめていたが、「でもね、美しいものは好き」と言うと、柔らかな笑みを浮かべた。
美しいもの。
それはシンプルに美しい音色を指すのか。それとも、容姿や内面の美しいものも含まれるのだろうか。
彼女の横顔は、美しいと思った。その指先も、色白の肌も。
ほかにはミントグリーンの鮮やかな色合い、七色に輝く虹、古本屋に並ぶ色褪せた本の背表紙も美しいと思う。今は空の上で暮らす僕の祖母は、心の美しい人だった。
「僕も、美しいものは好きだよ」
しばらくして僕がそう答えると、彼女は前方を向いたまま嬉しそうに口角を上げ、小さく頷いた。
そうこうする間に、右手には海が広がり始めた。彼女にはお気に入りの場所があるらしく、僕らを乗せた赤い車はもうしばらく風を切った。
「――誰もいないね」
快晴にも関わらず、目の前に見える砂浜は踏み荒らされた跡のない真っ新な状態だった。
「そうなの。良いところでしょ」
彼女が路肩に車を停め、浜辺へ繋がる階段を下りると、僕らは並んで砂浜を散歩した。
「ちょっと熱いね! 足の裏がじゃりじゃりするっ」
彼女はスニーカーを脱ぎ、両手にそれらを持ったまま波打ち際へ向けて走った。
打ち寄せる波はゆったりとしており、彼女は足に水が当たると「気持ちいい!」とはしゃぎながら嬉しそうに飛び跳ねていた。
僕にも靴を脱ぐよう催促したが、「濡れるのは苦手だから」と伝えると、彼女は波打ち際を僕と並行して歩いた。
「夏目さんっ、見て見て!」と言って彼女が見せたのは、綺麗な柄の貝殻だった。
「綺麗だね」と僕が答えると、彼女は目尻を垂らしてにっこり微笑み、「もっと探してみる!」と言いながら周囲を見回している。
彼女の無邪気な姿を眺めていると、まるで心が洗われるようだった。もしかすると、僕はずっとこんな風に家族と過ごすことに憧れを抱いていたのかもしれない。
濁りなく澄み切った水面は、濃度の異なる二種類の青色が水平線を境に見事なコントラストを描いている。僕らが歩く遥か遠方にはテトラポットが乱雑に積み重なり、それらはまるで不規則に降り積もった星屑のように思えた。
砂浜に上がって僕らは階段に腰掛けると、二人並んで海を眺めた。彼女が足を乾かす間に僕は階段を上り、道路の向こう側にある自販機で煙草を買った。購入するのはずいぶんと久々のことだ。
車の前まで戻り、ガードレールから身を乗り出して下を眺めると、彼女が砂浜に向かって屈む姿が見えた。左手には水筒を持ち、そこへ何かを流し込んでいる。
砂? いやいや、そんなわけは……。
車の中からライターを取り出して再び下を覗くと、彼女はすでに元の位置に戻って海を眺めていた。
僕は煙草に火をつけながら階段を下り、ナナの隣に座った。足はすっかり乾いたようで、両足に履いたスニーカーは仲睦まじく並んでいる。
「ねぇ、コーヒーを淹れてきたんだけど――」と落ち着いた声で言った彼女は、小ぶりの鞄の中から水筒を取り出した。
「良かったらどうかな?」
「……えっと」
「紙コップもあるよ。これは君の分ね」
そう言うと、彼女は少しざらついたように思える黒い液体を水筒からコップへ移し始めた。
「何だかこれ、濁ってない?」と僕が問いかけると、彼女は笑みを浮かべ、「トルココーヒーだからね。少し粉っぽいけど、気にしないで」と答えた。
僕は紙コップを受け取ったものの、飲むべきか迷っていた。黙って黒い液体を眺めていると、彼女が上目遣いに僕の顔を覗き込み、「コーヒー嫌いだった?」と不安げに尋ねた。
「そんなことないよ」
僕は思い切ってその液体を口に含んだ。すると、確かに粉っぽさは感じるものの、意外と美味しかった。
じゃりじゃりとした食感もなく、どうやら砂を入れたように見えたのは気のせいだったようだ。
「どうかな?」
「甘くて美味しいよ」
「そうでしょ? これはお気に入りなんだ。飲み終わった後、底に溜まった模様で運勢を占うんだよ。あれ、ソーサーを被せるんだっけ? まぁいいや。どんな模様になってる?」
「ちょっと待ってね」
僕はコーヒーを一息に飲み干すと、底の模様を確認した。ドロドロとした黒いものが波打っているだけのようにも思えたが、次第にそれらが二重、三重に増えて揺らめき始めた。
……あれ?
唐突に、視界がぼやける感覚があった。頭がふらつき、ひどく重たい。指先はまるで麻痺したように言うことを効かず、僕は手元からコップを落とした。
ふと彼女の方を見遣ると、ナナは不敵な笑みを浮かべて僕の様子をじっと観察している。やがて彼女の顔がスローモーションのようにゆっくりと傾き始めると、その残像が分身のようにゆらゆらと追随していた。
視界に映る彼女の残像は、そのすべての瞳が僕の顔を覗き込みながら何事かを囁いていた。
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