第26話
そして翌日。思ったよりも早く、その機会はやって来た。
昨日と同様、僕は駅前を一人でぶらついていた。天気はまたもや快晴で、アスファルトに反射した太陽光が暑苦しさをさらに倍増させていた。
雲や雨にも、少しくらい働いてもらいたいものだ。
書店とレコードショップをハシゴし、立ち読みや視聴で大いに満喫させてもらった。やはりこんな猛暑日は、屋内の整った空調環境で過ごすに限る。
昼食にはファストフード店に立ち寄り、バーガーとドリンクを購入したが、会計後にレシートを確認するとポテト付きのセットを選んでも対して値段の差がなかった。
殺人的な暑さを避けるために店内利用を選んだものの、周囲の客が騒がしい上に椅子の座り心地も悪く、地面は油汚れでギトギトしていた。
僕は急いでバーガーを腹の中に押し込むと、すぐに店を出た。
次はどこへ行こうか。本屋に戻っても良かったが、何度も立ち読みして目をつけられても厄介だ。近くに美術館でもあれば涼みに行けるのに。
などと、あれこれ考えながら信号を渡っていると、先頭に停車した一台の車が盛大にクラクションを鳴らし始めた。
「信号も待てないのか、せっかちな奴め!」と心の内で思いながら睨みつけると、窓からさっと顔を覗かせたのはナナだった。
「夏目さんっ!」
彼女はフォルクスワーゲンの赤いビートルから身を乗り出し、こちらに手を振っている。
ブルーのカラーサングラスをかけ、首には黒いチョーカーを巻いている。ポニーテールは思いのほか新鮮で、素直に可愛いと思った。
車の方へ歩いていくと、彼女は満面の笑みでこちらを見上げながら、「今からね、ドライブへ行こうと思っていたの。一緒にどうかしら?」と言った。
「一人で?」と言って僕が車内を窺うと、「あなたを入れたら二人よ」と笑顔で応えた彼女は、助手席のドアを開いた。
僕の脳裏には、昨日の光景がふと蘇った。これと言って特に予定もないが、ついて行って良いものだろうか。
開け放たれたドアを僕が黙って見つめていると、やがて信号が変わり、後ろの車はすかさずクラクションを鳴らし始めた。
僕は仕方なく助手席に乗り込み、ドアを締めてシートベルトに手を伸ばした。隣で満面の笑みを浮かべた彼女は、僕が乗り込むのを見届けてからハンドルを握って前へ向き直り、ゆっくり加速しながら赤いカブトムシを走らせた。
カーステレオからは誰かの弾いたショパンの演奏が流れており、軽快なエチュードは彼女の高揚した様子とどこか重なって見えた。
隣に座るナナを眺めると、シンプルな白いTシャツを着て、ビートルと同じくらい真っ赤なタイトスカートを履いていた。
涼しい顔つきで前方を見つめているが、彼女は運転に不慣れであることがすぐに分かった。姿勢は妙にピンとしているし、肩にも力が入っている。
「どこへ行くの?」
「海よ」
「ナビゲーションは必要かな?」
「大丈夫っ! 任せて」
彼女は迷いなくビートルの方向を操り、ナビを使わずに走らせた。
勢いで乗り込んだものの、彼女に誘われるままついてきて良かったのだろうか。脳裏には未だに昨日の光景がチラつき、それが僕の気持ちをどうにも不安にさせた。
されど好奇心とは恐ろしいもので、普段の僕なら確実に遠慮していた場面にも関わらず、数秒の判断で未知の領域へ足を踏み入れてしまった。それほど彼女の醸し出す不可思議な空気には、心惹かれるものがあった。
「…………」
慣れない相手と密閉空間で過ごすのは、やはり落ち着かないものだ。何だかとても煙草が吸いたい。最近は全く必要性を感じてこなかったのに。これも藤沢のせいか。
そんな僕の気持ちが見抜かれたのではないかと疑うほどに、彼女は都合良く鞄から煙草を取り出した。
慣れた手つきで火をつけると、「あなたも一本どう?」と問いかけながら、彼女は左手に持ったボックスをこちらに向けた。
僕はお言葉に甘え、細長いメンソールたちの列から一本引き抜き、ライターを借りて火をつけた。
揃って煙草を吸い始めると、沈黙が却って心地よく感じられた。僕は知らない道を走行する車内から景色を眺め、彼女は流れる音楽に口笛で応えながら、上機嫌で運転を続けている。
煙草の灰を落とそうと灰皿を開くと、すでに相当な量の吸殻が溜まっていたが、それは彼女が吸っているものとは銘柄が違う上に、今ほど彼女が捨てた吸殻にはフィルターに赤いルージュがくっきりと残っている。
「ドライブには、よく出かけるの?」
僕がそう尋ねると、彼女は前方を見つめたまま、「うん。たまにね」と答えた。
「綺麗に使わないと、お父さんに怒られちゃいそうだね」
藤沢が車を使用する際、よくそんなことをボヤいている。誰の車か直接尋ねるよりも都合が良いかと思い、そう投げかけたのだが、彼女は疑問げな表情を浮かべながら、「私、お父さんはいないよ?」と答えた。
「あぁ、そうなんだ」
僕は滑り出しから間違えてしまったようだ。
彼女は平然とした様子で答えていたが、これ以上踏み込んでも良い話題かどうか分からず、僕は思わず言葉を失った。
この車は、彼女が個人で使用するものではない。しかしながら、彼女に父親はいない。母親の所有物という線もあるが、今では素直に聞くのも躊躇われる。
それでも好奇心を捨てきれない僕は、誤ったふりをして助手席のダッシュボードを開くと、中身が足元にこぼれ落ちた。
案の定そこには車検証が入っており、片付ける際にこっそり名前を確認したところ、男性の名前が書かれていた。
巻島……。
『マキシマ』とフリガナが振ってある。彼女の兄だろうか? そういえば僕は、彼女の苗字すらまだ知らなかった。
「君の苗字って――」と僕が言いかけたところで、「私ね、実はずっと待っていたの」と彼女が遮るように言葉を発した。
「あなたが、街へやって来るんじゃないかって」
「待ってた?」
僕は放りかけた言葉を一旦飲み込み、ナナの横顔を見つめた。すると彼女はちらりと僕の方を眺め、「あなたに、また会いたかったの」と答えて僅かに微笑んだ。
彼女の真っ直ぐな視線に僕は思わず目を逸らしながら、「その……、待ってたっていうのはどういうことかな?」と尋ねた。
「だって、連絡先を知らないでしょ? だから車を引っ張り出して、ひとまず街へ行ってみたの。『あなたとドライブが出来たらどんなに素敵かな』って考えてたら、ほんとに現れるんだもん。つい興奮しちゃった!」
なるほど。となると、昨日も……。
「昨日も同じように街へ来てたの?」
僕がそう尋ねると、彼女は首を傾げ、「昨日? 昨日は来た覚えがないけれど、どうして?」と言った。
「いや。僕は昨日も街へ出ていたから、聞いてみただけだよ」
「そうなんだ! もっと早く思い立ってたら、一日早く会えたのにねっ」
「そうだね」
やはり、あの時の彼女は人違いか。あまりに現実味のない光景だったし、きっと暑さで参っていたんだろう。
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