第20話

 次の曲の演奏を待たずして、藤沢はすぐさま控室の方へ向かった。


「最後まで見なくていいの?」と後から続いた僕が尋ねると、「メジャーになったら、またいくらでも見れるだろ」と彼は答えた。


 本当は残念で堪らないはずだ。彼にとって思い出深いこの場所でのライブは、恐らく今日が最後なのだから。僕が余計な話をしたばかりに、藤沢は話したくもない相手と対峙しなければならない。


 だが、どうして彼はあれほどまで仲違いをした相手に、迷わず手を差し伸べられるのだろうか。僕にはそんなこと……。


「そんなに心配なの?」


 僕が問いかけると、彼は立ち止まって廊下の先を見つめていたが、「まぁ、あれでも腐れ縁だからな」としばらくして答えた。


 足早に廊下を抜けて控室を覗くと、そこには誰もいなかった。楽器などの機材もすでに運び出されており、ひと足先に会場を後にしたようだった。


「あいつのことだから、倉庫に寄って機材を置いて行くはずだ」と藤沢が言うと、僕らは急いでライブハウスを後にした。


 地上に出ると、いつの間にか日が暮れていた。僕は外気に思わず深呼吸をしかけたが、そこは抑えて静かに彼に付き従う。


 大通りに出るとタクシーを捕まえ、乗り込むなり彼は慣れた様子で運転手に住所を伝えている。


「よく覚えてるね」


「そりゃ何年も一緒にやってれば、嫌でも覚えるもんだよ」


 車内での藤沢は、珍しく静かだった。


 ――いや、違う。


 今日の彼は出会った瞬間から、一度だって騒がしかっただろうか?


 迂闊さからはおよそ程遠い彼が、眞人という男の存在により混乱し、お調子者の仮面を剥がされてしまっている。


 腐れ縁とは、一体どういったものか。僕にはまるで未知の領域だった。


 彼の横顔を覗くと、恐ろしく神妙な目つきをしている。


 やれやれ。早いところ元の彼に戻ってもらいたいものだ。普段からお喋りな奴が黙り込むと、こっちまで調子が狂ってしまうのだから。


 到着した場所は、倉庫というより別邸だった。小さなガレージのようなものを想像していたが、目の前のそれは確実に僕の実家よりも立派なもので、駐車スペースとしてのガレージも確かに存在していた。


 しばらく見張っていると、ガレージから眞人が歩いて出てくるのが見えた。黒いキャップ帽を深く被り、全身真っ黒なコーディネイトの服装はいかにも闇夜に紛れてやましい取引に出向くためのもののように僕には思えた。


 藤沢もそう感じたのか、黙って彼の後をつけ始めた。


 住宅地を抜けて寂れた工場地帯に出ると、古い建物が多くなった。辺りには壁や手すりに染み付いた油の匂いが漂っており、ちんけな街頭がほんの気持ち程度に配置されているだけで、暗闇の部分が多くを占めていた。


 眞人はとある廃工場の前で立ち止まると、周囲を警戒するように見回してからこっそりと扉の中に入った。僕らは工場の外周をうろつき、覗ける場所を探した。


「ここは?」と僕が手招きすると、隣にやってきた藤沢は隙間を覗き込んだ。


 眞人は煙草に火をつけると少し吸っては地面に捨て、また新たに一本取り出して火をつけ始めた。明らかに不審な様子で、時おり腕時計で時間を確認している仕草や入口の辺りを見遣る動きから、誰かを待っているように思えた。


「約束は九時のはずだけど」と僕が小声で言いながら藤沢の方を見ると、彼は「しっ! 誰か来た」と言いながら彼の方を指差した。


「あっ」と声を上げそうになった僕の口元を押さえ、藤沢は彼の姿を睨みつけるように見つめていた。


 それというのも、相手は姿を現した途端に眞人に対してひどく威圧的な態度を示したからだ。


「なんか揉めてる?」


 取引相手らしき人相の悪い男の背後から数人の連れが現れると、ゆっくりと眞人の周囲を取り囲んだ。


「どうする?」と藤沢に尋ねると、彼はじっと眞人の方を見ながら、「放っとくわけにもいかないだろ」と呟くように答えた。


「じゃあ、僕はとりあえず警察に通報して――」と言いかけたところで、僕は背後から何者かに口を押さえられた。


 途端に意識が朦朧とし、身体がふらつき始めたところで布のようなものを頭からすっぽりと被せられ、地面に叩きつけられた。


 少しの間意識を失っていたのか、気づけば僕は腕を持たれて地面を引き摺られ、そのままどこかの狭い空間に投げ込まれた。


「雑に扱うなよ」という言葉が聞こえ、それに対して謝罪している声も小さく聞こえてきた。


 エンジン音、僅かな振動、――そして、扉を閉める音。


 未だ意識がぼんやりとするなか、耳に聞こえてきたその音や感覚から恐らく自動車の後部座席に横たわっているのだと僕は推測できた。


 しばらくすると前方に誰かが乗り込む音が聞こえ、扉を閉めた瞬間、風に乗って嗅いだことのある華やかな香りが漂ってきた。


 自動車はひたすら走行を続けている。視界が遮られているせいか、それはひどく長い時間に感じられた。


 カーブを曲がり、坂を上り、また下り。僅かに変化する重力に身体を揺らし、まずは状況を把握すべく、僕は沈黙したままじっと横たわっていた。


 運転席の方からは会話らしき声も全く聞こえて来ない。


 どこへ連れて行かれるのだろうか。


 こういった場合、テレビドラマでは口封じに殺されてもおかしくない状況に思えたが、不思議とそういった危機感はなかった。


 手足は特に拘束されておらず、顔を覆った布もすぐに捲ることができる。いざとなれば、ポケットの携帯電話で警察に連絡することだって可能な状況なのだ。


 僕はそれほど警戒されていない? 


 むしろ、危害を与えるつもりがないのかもしれない。先ほど聞こえた言葉も、それを意図しているように思えた。


 けれど、なぜあの場から連れ去られたのかが理解できない。取引現場を見られたから? それとも別に理由が――。


「それにしても、随分と大掛かりですね」


 前方から突然、男の声が聞こえてきた。


「眞人さんのためとはいえ、ちょっとやり過ぎなんじゃないですか?」


「いやいや。これくらいしないと、もうあの子は変わらないんだよ」


 今度は別の声がそれに答えている。「あいつの将来を考えると、早いところ手を打たないと」


「それは、そうですけど」


 聞き覚えのある声、それにこの匂い……。


 僕の推測が正しければ、彼はきっとあの人で間違いない。だが、会話の意図するところがいまいち理解できなかった。


 将来? あの人はどういうつもりで、彼をドラッグの取引になど誘い込んだのだろうか。


「選択肢は与えたんだ。踏み越えたのはあの子なんだから、きっちり自分で責任を取ってもらわないとね」


「そうですけど、何だか可哀そうっていうか」


「お前もあいつをそばで見てれば分かるさ。あいつは子供過ぎる。あれじゃこの先、汚い大人たちを相手に上手く立ち回ることは到底できそうにないよ」


「大変な世界に生まれてきたもんですね」


「――諸星さん」


 一か八か、僕はその名を呼んだ。かなり危険な気もしたが、僕は危機的状況になると妙に大胆なところがあるようだ。


 正直自分でも、今までそんな性格だとはまるで気がつかなかった。


 だが、確証がないわけではない。二人の会話内容から、単に彼を陥れるためにあの現場へ赴かせたのではなく、あのような状況に巻き込んだのではないかと僕には思えた。


 こうなっては、あとは直接彼に問いただすしかない。

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