第19話
清掃と客の入れ替えが終わると再び照明が落ち、目当てのバンドのSEが流れ始めた。
客数は先ほどよりもむしろ増えているように思えたが、大騒ぎするような連中はおらず(例外として、熱狂的な一部のファンは奇妙な歓声を上げているが)、腕を組んだまま静かにステージを睨みつける者が多く見られた。
「ちょっとトイレ」
こういう時に限って、僕の身体は空気が読めない。心と身体は主人に似通うものだろうか。
「もう始まるぞ?」
「すぐ戻るよ」
僕は入口付近にある扉を開き、目の前にいたスタッフにトイレの場所を尋ねた。黒いTシャツ姿の彼は左方向を指差し、このまま廊下を真っ直ぐ進めば突き当りにあると教えてくれた。
言われた通りに僕は薄暗い通路を進み、途中で控室の前を通り抜けてようやく突き当りのトイレまで辿り着くと、寒気を覚えるほどに水分を持っていかれた。意外に長い地下通路で少し焦ってしまった。
トイレから出てきた僕は来た道を戻ろうと歩き始めたが、進行方向に薄らと光の筋が見え、控室の扉が僅かに開いているのに気がついた。
室内の話し声が廊下まで漏れ出ており、当然僕の耳にもそれは届いていた。どこかで聞き覚えのある声だと思いながら扉の前を通り過ぎようとしたところ、またも厄介な言葉を耳にした僕は思わず立ち止まった。
音を立てぬようその場に屈み込むと、失礼とは思いつつ、僕は扉の隙間から室内を覗き込んだ。部屋の奥に見えるのは開場前に藤沢と口論をしていた蜥蜴染みた快活な男だった。目つきの悪い顔で、さらに険しい表情を浮かべている。
「――お前、仲介なんてやってんの?」
「こう見えて、結構顔が広いんだ」
会話相手の姿は目視できないが、その声には聞き覚えがあった。先ほどカウンターで藤沢と話をしていた諸星という男だ。ここは彼らのバンドの控室なのか。
「良かったら紹介するよ。興味があればだけど」
「興味ねぇ」と眞人は呟き、さも煩わしそうな表情を浮かべた。
「それって結構やばい話なんじゃないの?」
「全然やばくないよ、俺の名前を出せばすぐだから。連絡しといてあげる。九時でどうだい?」
「まだ買うとは言ってない」
「君も色々とストレスの多い立場だろ? ここらで一発ガス抜きをした方が良いかと僕は思うんだよ」
眞人は考え込むように俯いていたが、しばらくして、「すぐには決められない」と言った。
「一応、相談してからじゃないと」
すると視界の外で誰かが深いため息をつき、「相談? この話は君にしているんだよ。ステージで金はばら撒くくせに、その金でドラッグも買えないなんて、情けない奴だね」と責めるように話す諸星の声が聞こえた。
「ビビったのならこの話はなしってことで構わないけど、くれぐれも内密に頼むよ。――あぁ、そういうのは得意だったか」
扉の方へと近づく足音が聞こえ、僕は慌ててその場から離れようと思ったが、眞人が後ろから彼を呼び止めたため、何とか見つからずに済んだ。
「誰がビビったって?」
「じゃあ、交渉成立かな?」
そこまで聞いて僕は扉から離れると、静かに廊下を抜けてスタジオの方へ戻った。
扉を開くと、演奏はすでに始まっていた。ちょうど中条という男が派手にギターソロを弾いているところだ。
およそ本番前にアルコールを摂ったとは思えないほど繊細な指さばきで、それは水中を泳ぎ進む海月を思わせる優雅な滑らかさだった。
ダイナミックな高音の後ろでは、ベースやドラムなどの重低音がまさしく一体となっており、まるで身体の芯を巨大なハンマーで殴りつけられるような心地だった。
「遅かったな、でかいやつか?」
そんな藤沢の言葉を無視しつつ隣に立つと、僕はビールを飲んだ杯数を頭の中で数え始めた。「僕って、結構飲んだ?」
「はっ? あんなの一昨日に比べたら、ひと舐めしたくらいだろ」
「……そうだよね」
僕が黙って考え込む様子を見た彼は、「なんだよ、もう酔っ払ったか?」と心配そうに顔を覗き込んだ。
僕は左右に小さく首を振って応え、「後で話すよ」と言って演奏を聴き始めた。
せっかくの時間を邪魔したくはない。
「なんだよ、気になるなぁ」と藤沢は怪訝な表情を浮かべたが、舞台の方を向いて何も話そうとしない僕を見遣ると、彼も仕方なく同じように前を向いた。
一曲目が終わり、ボーカルの女性がMCを始めたところで藤沢が素早く飲み物を二つ注文した。カウンターで受け取ったうちの一つを僕に手渡しながら、「――で、さっき言いかけたのは?」と律儀に尋ねてきた。
「もしかすると、見間違えだったかも」と僕が誤魔化そうとすると、「ふうん」と彼はさほど興味のない風を装いつつ、「何を?」と続けて尋ねた。
「分かったよ」
仕方なく僕は、廊下でついさっき見聞きしたことを藤沢に話した。すると彼は静かに舌打ちし、「それ、洒落にならんだろ」と呟きながら険しい顔つきになった。
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