第10話

 彼女は先程までの危うさをどこへ置き去りにしたのか、嘘みたいに溌溂とした口調で自己紹介をし、今では人懐っこい姪っ子のような雰囲気を醸し出している。


 僕は無意識のうちにその変化を観察していたが、ふと彼女と目が合い、「えと、何か雰囲気変わった?」とつい思ったことを口にしていた。


 その瞬間、ナナという名の少女はひどく困惑した表情を浮かべ、じっと睨みつけるように僕の顔を見つめてきた。


 空気の歪みを過敏に察してか、藤沢は僕と彼女を交互に見遣り、「じゃあ、改めて三人で乾杯しましょうか」とすかさず割って入った。


 三人で飲み始めた僕らは、主に藤沢とナナが会話し、間に挟まれた僕がささやかな合いの手を入れた。ホスト役を引き受けた彼は誰かが退屈をしないよう適度に話題を振りながら場を盛り上げ、恐ろしい頻度で僕らを笑わせてくれた。


 ナナはおすすめの酒を藤沢に尋ね、それらをかなりのハイペースで飲み干していく。これ程の耐性を見せておきながら、彼女は酒についての知識を全く持ち合わせていなかった。


 唯一知っていたのが初めに注文したバーボンのみで、ビールすら初めてだと話している。


「このお酒、何だか苦いわ」


「ビールは喉越しを楽しむものなんだよ」と藤沢が教えると、「そうなんだ!」と答えたナナは言われた通りにそれを流し込み、「これで良いの?」と言いながら嬉しそうに笑みを浮かべている。


「ナナちゃんは良い飲みっぷりだねぇ! 夏目なんてちびちび飲んでばっかでさ」


「早ければ良いってもんでもないだろ」


「いやいや、それだと全部水になるから」と僕のグラスを彼が指差すと、ナナは笑い声を上げ、「夏目さんはお水が好きなのね」と言った。


 短い間にも三人でかなりの量の酒を飲んだが、それでも気持ち良く酔うことができたし、身体にはみるみる力が漲ってくるようだった。


 三人でいるうち、僕は彼女に対して次第に親しみを覚え始め(ほとんど藤沢の功績によるものだが)、ずいぶんと賑やかな時間を過ごすことができた。


 もし僕にこんな人懐っこい妹がいれば、気軽に色々な話が出来たのかもしれないと想像したりもした。


 閉店時間までたっぷりと居座ってから、僕らは店を後にした。


 ナナの住まいについて尋ねると、「ここからタクシーでそう遠くないところよ」と話してくれたが、詳しい場所までは語ろうとしなかった。


 藤沢が手慣れた様子でタクシーを拾い、僕らは彼女が乗るところを見送った。


 ふらつきのない、しっかりとした足取りでヒールの踵を鳴らし、ナナはタクシーに向かって歩いていく。僕の隣を通り過ぎる際にこちらへ視線を送ると、一瞬だけ捉えたその表情は来店時に見せた挑発的で艶やかな目つきに戻っていた。


 耳元で何かを囁かれたように感じたが、辺りの騒音がひどく聞き取ることはできなかった。


 代わりに風に乗った妖艶な香りが僕を包み込むと、嗅覚がひどく刺激された。


「とても楽しかったわ。また、お会いましょうね」


 そう言い残すと、彼女は夜の街へ消えていった。


 ナナが乗ったタクシーが視界から消えると、藤沢は身体を伸ばしながら、「さてと。飲み直しますか」と言った。


「……僕は、もう帰るよ」


 俯きながら僕が答えると、彼は眉間に皺を寄せ、「帰るってお前、どこによ? 葬儀場にか?」と問い詰めるように尋ねた。


「ネットカフェにでも泊まろうかと」


 さすがに今夜は、実家にも葬儀場にも帰る気分になれなかった。


「あぁ、そういうことね」


 呆れた表情を浮かべた彼は、「すぐそこ俺の家だから、良かったら来いよ」と言った。


「一人暮らしだから他には誰もいないし、布団の予備はないけど夏場だからそのくらい平気だろ」


 そう言うと彼は、返事も聞かずに歩き始めた。僕は彼の背中を目で追っていたが、やがてふらつく足を動かしながら後を追った。


「なんで、僕にかまうんだよ?」


 彼の自宅へ向かう途中、僕は今さらながらそんなことを尋ねた。今までにこれといった接点もなく、それも偶然出会っただけの相手にどうしてここまで良くしてくれるのか、僕には理解ができなかった。


 彼は立ち止まってゆっくりこちらを振り返ると、「俺たちってさ、何か似てない?」と答えた。


「鏡見てみろよ。ひどい顔してる。お前も、――もちろん俺もな」


 そう言われ、僕はふと彼の顔を眺めた。目の前に布団があればそのまま倒れ込んでしまいそうなほど眠たげな目をしているものの、目尻には笑顔で皺が寄っている。その皺は、僕のために働いているのだ。


「一人で抱え込むのは、結構辛いよな」と小さく呟いた彼は、もはや説明するのが面倒になったのか頭を掻きむしり、「まぁ要するに、ただのお節介だから」と言ってまた歩き出した。


 お節介……。


 そんな一方的な言葉で言い表せるほど、彼の気配りは薄っぺらなものではないように思えた。まるで雛鳥を世話する親鳥のように献身的で、思いやりに溢れている。


 ふらついた華奢な彼の背中には、いつも気兼ねなく僕を部屋に迎え入れてくれた祖母の姿が重なって見えるようだった。


「鏡、知ってたんだね」と僕が後ろから声を掛けると、彼は大袈裟に首を振りながら、「まだその話生きてんのかよ」と言って笑った。


 途中で見かけたコンビニに寄り、アルコール類や軽いつまみ、それに歯ブラシを買い足してから、僕らは改めて彼の家を目指した。

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