第11話

 彼の住まいは、思いのほか老朽化したアパートだった。


 部屋は一階の角部屋で、玄関を入ってすぐのささやかな廊下部分を別称で『キッチン』と呼んでいるのが少し可笑しかった。


 確かに小さなコンロとシンクが左側の壁の窪みにひっそりと収まってはいたが、どう言い繕ってもこの部屋はただのワンルームでしかない。トイレと風呂は別々になっており、シンクと反対側にそれぞれの扉が並んでいた。


 廊下を抜けた先には六畳ほどの空間が広がり、壁紙は僅かに黄ばんでいた。シングルベッド、机、スチール製の三段棚に乗せたテレビ、ミニコンポなどが見られ、とても生活感に溢れている。


 カーテンの隙間から表を覗くと、眼下には駐車場が広がっていた。アパートが坂の上に位置しているため、眺めはもはや二階と言っても良いほどだった。


 交代で風呂に入り、二人で缶ビールを飲みながらテレビの深夜番組を見て過ごした。「あの俳優も老けたなぁ」だとか、「このCMの子、変わったんだ」などと平凡な会話をしながら、穏やかな時間はあっという間に過ぎていった。


 藤沢自身がこの上なく自然体でいるためか、この部屋にとっての異物である僕もまた、まるで一部と化したように自然な心地でいることができた。


 祖母の家に出入りしていた頃と違い、僕の胸の中は絶えず高揚感で溢れている。友人の家に泊まるというのは、こういうものか。


 ベッドを使っても構わないと言われたが、さすがに断った。僕は床の上に寝転び、薄手の毛布を一枚羽織って眠った。


 すでに日の出を迎え、表は明るく白ずんできている。青白く柔らかな陽光がカーテン越しに部屋全体を照らすと、少し寸法の足りないカーテンの隙間から、朝を告げる合図のようにはっきりとした光がちらちらと忙しなく覗いていた。


 天井を見つめながら、僕は祖母の家に初めて泊まった日のことを思い返していた。日本家屋特有の木材による音鳴りが怖くて、その日は上手く寝付けなかった。


 祖母と一緒に眠ってもらおうかとも考えたが、そのためには一度外廊下に出て移動しなければならない。布団に守られた状態ですら発狂寸前の僕にとって、部屋から出るなど恐ろしくて出来そうになかった。仕方なく掛け布団を頭まですっぽりと覆った状態で震えていると、いつの間にか朝を迎えていた。


 朝になって水分を含んだ僕の布団を見た祖母は、それでも嫌な顔一つせず、いつもと変わらぬ笑顔で頭を優しく撫でてくれた。


 二度目の宿泊からは、祖母の部屋で一緒に眠ることにした。部屋の中はちょっぴり線香の匂いが漂い、初めはそれが鬱陶しくも感じられたけれど、慣れてくると暖かな繭に包まれているような安心感があり、不思議とリラックスできた。


 今思えばあれは、――ラベンダーの香りだった。幼少期の僕はただの線香だと思っていたが、祖母は眠る前に必ずラベンダーのお香を焚いていたようだ。


 最後にあの親密な空間で眠りに就いたのは、一体いつ頃だろうか。何世紀も以前の昔話を思い返しているような気分になり、途端に胸の奥がひどい憂鬱さに襲われた。


 一度寝返りを打つと、床の中に身体が吸い込まれるような感覚を覚え、気づけば意識を失っていた。


 目が覚めると、香ばしい匂いがした。キッチンに立つ藤沢がカップを二つ手に持ってこちらへやって来ると、折りたたみ式の小さなローテーブルにそれらを置いた。


 時計を見ると、十時半を少し回ったところだった。


「なぁ夏目よ。ばあちゃんの所に最後の挨拶に行かないか?」


 手に持ったカップに息を吹きかけながら、藤沢はそう言った。僕もカップを掴み、一口飲んだ。彼の淹れたコーヒーは少し苦くて、粉っぽい。


「今さら行ったところで、告別式はもうすぐ終わるよ」


「いや、そうじゃなくて」と藤沢は手を振り、「火葬場の場所は分かるか?」と言った。


「空へ帰っていくばあちゃんを見送ってやるのも、悪くないんじゃないかと思ってさ」


「火葬場?」僕は細長い煙突を想像しつつ、「でも、今どき煙とか出ないんじゃない?」


「お前さ、そういうのは想像力を働かせて出てるように思えばどうとでも――」と、彼は身振りで煙のゆらゆらを表現したが、改まったように姿勢を正し、「肝心なのは気持ちだって。お前も葬式を抜け出したこと、少しは後悔してるんだろ?」と言った。


「それは……」


「最後くらい、ばあちゃんに何か一言あっても良いじゃんか」


 一言……。


「例えば、どんな言葉がいいのかな?」


 彼に向かってそう尋ねた僕は、純粋に気になった。最後に何を伝えれば、彼女は満足するだろうか。そんな都合の良い言葉が、本当にあるのだろうかと。


 藤沢は少しだけ考える素振りを見せた後、さも下らない思いつきをしたように無邪気な表情を浮かべ、「友達ができました。こいつです。ドーン! とかは?」と言った。


「そんなこと――」と答えかけた僕は、ふと思った。


 そう、何だって良い。これは彼女に向けた想いなのだから。問題は言葉ではなく、それを伝える姿勢なのかもしれない。


 コーヒーから立ち上る湯気を眺めた僕は、一枚の白い羽根が風圧で舞い上がる様を連想した。遥か先に広がる青い空には、あの日見た虹色の架橋が渡り、僕は祖母とともに軽やかな足取りでその上を歩き進んでいく。


「台詞には問題があるけど、悪くないかもね」


「だろ?」

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