第9話
二人で何杯かグラスを空ける頃には客足も増え、店内は混み合い始めた。僕らはカウンターの奥の席を陣取り、気ままに会話を楽しみながら過ごしている。
「お前さ、あんま飲みすぎんなよ?」
「そっちこそ、釣り目が垂れて普通の目つきになってるけど」
「元からそんなに釣り目じゃねーよ」
「藤沢さ、鏡って知ってる?」
こんなにも言葉を発したのは久々のことで、そもそも僕にとっては友人と語らいながら酒を酌み交わすなど初めての経験だったが、不思議と違和感はなかった。
僕らよりも後に来た客が先に店を去り、また新たな客が席を埋めていく。店内は騒々しさを増すばかりだった。
来店時からすでに泥酔状態の連中も見られ、突然立ち上がって一気飲みを始める輩までいた。耳がピアスの穴だらけの男はグラスの中身を何度もテーブルの上にぶちまけると、その度に一人で腹を抱えて大笑いしていた。床を拭きに来る店員が気の毒で仕方がない。
そんな混沌とした空間に、一人の少女が来店してきた。
まるで精巧に作られた蝋人形のように美しい容姿を持つその女性は、店に入った瞬間から独特の存在感を放っていた。僕らよりも少し歳下か同年代のように思えたが、彼女を一目見た瞬間から、僕は自然とその姿を目で追っていた。
ダークブルーのワンピースは華奢な体つきにぴったりと密着しており、ノースリーブの袖から覗かせる雪のように白い肌はひどく輝いて映った。艶のある長い黒髪は眉の辺りで前髪が一直線に切り揃えられ、ぽってりとした唇には血のように赤いルージュが塗られている。
色香と艶かしさを多分に含みながら、どこかアンドロイドのように冷ややかで、その不均等な危うさに僕は心を奪われていた。彼女の人間味の希薄さ、それに独特の色気を醸し出す最大の要因は、執拗に人を誘い込むような目つきであるように思えた。
口元に妖艶な笑みを浮かべながら、彼女は店内を物珍しそうに見渡している。
「お客さま、申し訳ございません。こちらの席にお一人様をお通ししてもよろしいでしょうか?」と、前髪の長い店員はカウンターの向こうから僕に向かって言った。
風貌のわりに丁寧な言葉遣いをするものだと思いながら店内を眺めると、僕がジャケットを置いた隣の席以外に空席は見当たらなかった。
僕の代わりに藤沢が二つ返事で了承すると、店員はさっそく隣の席へ彼女を通し始めた。
「聞き違いだったかな? 君はさっき、『女にはうんざりだ』と僕に話してなかったか?」と、店員に向かって陽気に振舞う彼を見ながら僕は冷淡に囁いた。
「解釈が違うな。俺がうんざりしてるのは、『女の話ばかりする連中に』だよ。女が嫌いだとは一言も言ってない」
藤沢は人差し指を立てて訂正しつつ、「それにあの子、せっかく来たのに可哀想じゃないか」と皺の寄った笑みを浮かべた。
この男は調子が良いのか、人が良いのか。
少女が着席すると、カウンターの一番奥に藤沢が座り、その左側に僕、さらに左隣が彼女という構図になった。
彼女はメニューも見ずにバーボンのロックを注文し、僕らもそれに倣ってバーボンに切り替えた。僕はすでに酔いが回ってきていたが、それでも吐き気や眠気などは一切感じられず、むしろ心地よい浮遊感のような味わいがあった。
まるで水中を泳ぎ回っていたあの頃を思い出すようだ。
夜も更けてきたせいか、照明は適度に落とされ、バックミュージックは淑やかなジャズの演奏に変わっていた。
隣に腰掛けた藤沢が、「コルトレーンか、良いよなぁ」と呟いたので、恐らくそうなのだろう。
三人分の飲み物が、ほぼ同時に手元に届いた。彼女は色っぽい目つきで僕らを横目に見遣ると、唇の辺りに細長い指でそっと触れ、そのまま僅かに微笑みながらグラスを傾けた。僕らはそれにつられ、気づけば同じようにグラスを揺らしていた。
「よく、来られるんですか?」
彼女は笑みを浮かべたまま、ちょっぴり低めの声で僕にそう尋ねた。
咄嗟のことに僕が戸惑った表情を浮かべていると、「そうですね。俺は何度か来てますよ。こいつは帰省中なので今日が初めてです」と、奥に座る藤沢が得意の陽気さで代わりに答えた。
「あら、そうですか」と言って藤沢に微笑んだ後、彼女は僕の顔を覗き込み、「どちらから帰省なさったんです?」と尋ねた。
「東の方、ですね」と僕はそっけなく答えた。
彼女は僕の瞳を真っ直ぐに見つめたまま、「ふふ。謎めかしくて素敵」と言うと、大人びた表情で可笑しそうに笑った。
彼女の刺さるような視線に気まずさを覚え、つい俯いた僕の肩に藤沢は手を触れ、「無愛想でごめんなさいね。こいつ人見知りなうえに、今日はちょっぴりへこむことがあったもんでテンション低めなんですよ」と、恐らく皺の寄った笑顔で答えているのだろう。
「あら、ごめんなさい。ご迷惑でした?」
彼女は上目遣いで僕を見つめ、口元に手を翳しながら目を見開いた。藤沢は僕の視界の端でぶんぶん手を振りながら、「気にしなくて大丈夫ですよ。今日はこいつのために大いに騒ごうって話になってますから」と答えた。
彼は僕の肩の反対側まで腕を回し、「もしあなたが良ければ、お話なんかしながら一緒に飲みませんか? その方がむしろ嬉しいです、こいつも」
調子の良いことばかりを並べ立てる彼の方を向いた僕は、ため息をつきながら肩を竦めたが、彼にとっては「勝手にしてくれ」という合図に思えたのか、笑顔を浮かべている。
「…………」
彼女は突然黙り込むと、何事かを考えるように俯き始めた。
やがて顔を上げた後もぼんやりとした表情でカウンターや店内を見回していたが、唐突に僕らの方を見ると瞳を輝かせながら、「嬉しいっ! 私、こういうの初めて!」と声を上げた。
「俺は藤沢です。そんで、こいつは夏目」と答えた彼は、僕の背中を軽く叩いた。だから僕は「どうも」と小声で言い、僅かに首だけを動かして応えた。
「私、ナナって言います!」
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