第8話
「そんなにくだらなかったの?」
僕がそう問いかけると、彼は薄っすらと笑みを浮かべ、「茶番だよな」と言い捨てて顔を歪ませた。
「人は平気で嘘をつくし、いざとなったら裏切るんだよ。最低でも一人は自分より劣った人間を手元に置いていないと安心できないらしい。そいつらがまるでパートナーみたいな面してお互いに寄り添ってるのを見た時は、まさしく恐怖を覚えたね。
『友達の女と寝てきた!』とか平気で自慢してくる奴もいたかな。それってもはや、友達でもなんでもないのにさ」
彼は時に、何と物憂げな表情を浮かべるものか。孤独という名の深淵に沈み込み、水中にも似た息苦しい場所から太陽光の淡い揺らめきに向かって必死に手を伸ばす彼の姿には、どこか親近感を覚えた。
あぁ、そうか。
僕は一人きりで悩みを抱える彼に、自分を重ねていた。だがそれは、およそ似通ってはいるものの、決定的にどこかが異なっている。
「そんなに嫌なら、輪の中に入らなければいいじゃないか」
グラスを空けると、僕は店員におかわりの合図をした。藤沢は首を振りながら、「それができたら苦労はないんだよ」と応え、僕に便乗しておかわりを要求した。
「あの頃から俺は、夏目が羨ましかったな」
店員がグラスを引き取る後ろ姿を見送りながら、彼は静かにそう呟いた。
「僕?」
意外なところで自身が登場したことに、僕は正直驚かされた。消えかかった蝋燭のように矮小な存在の、一体何が羨ましいというのか。
「初めて夏目を知ったのは、一年の初めの実力テストだったよ」
藤沢は懐かしそうに笑みを浮かべ、「順位表を見に行った時、俺のすぐ上にある名前が妙に目についてさ。そいつをとりあえず抜こうっていう目標を掲げて、俺は次の試験に挑んだわけ。でもそいつは、次の試験でも狙い澄ましたようにすぐ上をキープしてきた」
そういえば、試験の順位がどこかに張り出されているという噂を耳にしたことはあった。わざわざ見に行ったことは一度もなかったけれど。
「ようやくお目にかかったのが、二年の合同授業さ。『夏目って奴はあんな顔してんだな』って感じで。見た瞬間にピンときたよ。あいつは俺と似たもの同士だって、匂いで分かった」
「臭い……」
僕が身体をくんくん嗅ぐと、「いや、例えだから」と彼は呆れたように答え、それから仕切り直すように一度咳払いをしたのち、「だから俺は、ほとんど接点もなかったお前に妙な好感を持ってたんだよ。そっちからしたら、『何を言ってんだか』って感じかもしれないけどさ」
遠くを見遣るような目つきで雑然としたリキュール棚を眺める彼の横顔を見ながら、僕は高校生活を改めて思い返した。
けれども、これといった思い出は一切浮かんで来ず、クラスメイトの顔すらほとんど思い出せなかった。何度も同じ一日をループしていたのだと誰かに説明を受ければ、それすら納得してしまいそうだ。
すると藤沢は、突然こちらを向いて指差しながらこう言った。
「それさ、授業中もよくやってたな」
僕が首を傾げると、彼は笑みを浮かべ、「夏目って、考え事する時に前髪いじる癖あるだろ? 昔もよくやってた」と答えた。
言われてみれば、確かに僕は前髪を触っている。けれど、そんなにいつも触っていたとは自分でも気がつかなかった。
「……お前って、きもい」
「いやいや! そこは『よく見てるなぁ』と褒めるところでしょうよ」と軽快にリアクションをとる彼は、またも顔に皺を寄せながら笑っている。誰しも、自身の癖には気付きにくいものかもしれない。
「もしここで今日会ったのが夏目じゃなく他の同級生だったら、俺はきっと声を掛けなかったね」
彼はグラスの縁を指先でそっとなぞり、「俺はさ、そういう奴なんだ。愛嬌や協調性はただの作り物だから」と言った。
「腹ん中は真っ黒なくせに、いざとなるとそいつを咄嗟に隠しちまうだけなんだよ」
そのままカウンターに伏せた彼は、指先で円を描き始めた。酔いが回ったのか、頬は薄っすらと紅潮している。
「狭苦しい洗濯機なんだよ」
「洗濯機?」と僕が問いかけると、彼は円を描いた箇所を指で突っつき、「みんなごちゃ混ぜにされてさ、ぎゅうぎゅう詰めで回ってるんだ」と言った。
「俺はくだらない連中と同じようにくだらない生き方の真似事をして、それでいつか、ごわごわのタオルみたいに劣化しても、くだらない連鎖からは抜け出せない。これから先社会に出ても、延々と同じようなことを繰り返すのかと思うとさ、正直うんざりしてきたところだったんだ」
彼が早口に話し終えると、途端に音楽が耳に入った。それなのに、何故だか周囲がひどく静まり返っている。彼が内包する『静』と『動』の恐ろしいまでの落差が、そのような現象を引き起こすのだろうか。
すっかり気の沈んだ彼にどう声を掛けて良いものか、困った僕はふと天井を見上げた。ミラーボールの反射色は派手なショッキングピンクから、いつしか陰鬱な群青色に変わっている。それは、彼の心象と表現するにはあまりに安っぽい色味に思えた。
店員が持ってきたウイスキーを受け取ると、僕はそれを少し口に含み、「何となく、分かった気がする」と答えた。
「分かってくれたか!」
素早く顔を上げた彼は、火照った顔でこちらを見つめている。
ニヤついた表情を浮かべた僕が「全部、自業自得ってやつだよね」と答えると、彼はまたも勢いよくカウンターに伏し、「だよなぁ!」と声を上げた。
僕は、彼に自分を重ねている。
けれど彼と僕は、決定的に異なっている。それは暗闇から水面を求めて抗う彼と、早々に諦めて底の方を泳ぎ進む僕の間に生まれた欲求の差かもしれない。
僅かに頭を上げた彼は、灰皿に置いた煙草を掴んだものの、それはすでにただの灰と化していた。そんな彼の姿を眺めながら、僕はどうしようもなく愉快な気持ちになった。
彼を、もっと知りたいと思った。
「僕は、わりと直感で物事を決めつけるところがあるよ」
「へぇ、例えば?」
カウンターに顎を乗せ、彼はごそごそと新たに煙草を取り出して火をつけ始めている。
「例えば……」と一度間を置き、僕はしばらくの間グラスに揺らめく水面を眺めていたが、彼の方へゆっくりと視線を移し、「ごわごわのタオルって、僕はそんなに嫌いじゃないよ」と答えた。
「何だよ、そのカミングアウト」
藤沢は眉間に皺を寄せてこちらを振り向いたが、僕の突き出したグラスを見遣ると不意に表情を綻ばせ、勢いよく自分のグラスを掴んだ。
「はは。騒がしくなってきたな!」
「どこが」
二度目に僕らのグラスが弾け合った音は、先ほどよりもどこか、清々しい響きを帯びているように感じられた。
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