第7話
「夏目はもう、就職先決まってる?」
黙って天井を見上げていた藤沢は、改まったようにそう尋ねた。
僕はカウンターでグラスを洗う店員を眺めながら、「僕は、就職活動はしないよ」と答えた。
「大学院に行こうと思ってるから。……そっちは?」
「大学院! その手があったか」と答えた彼は、眉の辺りを指で掻き、「俺? 俺はまぁ……。一応決まってるよ。来年からはいわゆる営業マンってやつ」
「営業って……、接待とかするのかな」
僕は不安げな表情でそう呟いた後、「僕には想像もつかない世界だけど、藤沢には合ってるかも」と言った。
「そうなの?」
彼は驚いたように目を見開き、「ちなみにどの辺が?」と前のめりになって尋ねた。
「前に読んだことあるよ。営業職に合うのはどんなタイプの人物かっていうコラム」
「へぇ。そんなの読んでんの」とあっさりした口調で応えつつ、「それで? どんな奴だって?」と彼は興味津々な眼差しを送っている。
「確か要約すると、『愛嬌と協調性があって、時にふてぶてしさを発揮するやつ』だったかな」
「…………」
ほんの一瞬、暗い表情を浮かべた彼だったが、「まさしく俺のことだな」と答えると、続けて大きく笑い声を上げた。
「何か、不満そうだね」
彼の反応を見た僕がそう言うと、これまた驚いたように彼は瞬きの回数を増やし、「なんで、そう思うんだ?」と尋ねた。
「何て言うか、意気揚々と就職先を説明する人間は、『一応』なんて言葉は使わないかなって」
本当は他にも、彼を纏う空気や表情に少しばかりの変化を感じていたが、それを口にしても良いものか、僕には分からなかった。
藤沢は喉を詰まらせたイグアナのような表情でこちらを見ていたが、突然顔に皺を寄せ、「実は俺、人付き合いが好きじゃないんだよね」と苦い表情で告白した。
「……」
この男は、一体何を言っているのか。
正直言って彼の言葉には度肝を抜かれたが、表情から冗談ではないことを悟った僕は、何やら意味深な空気が漂うのを感じ取り、「へぇ、興味深いね。話してみたまえよ」となるべく軽い調子で返した。
すると彼は、僕の返答に意外そうな反応を示しながらも、「誰目線だよ」と律儀に合いの手を入れてくる。
それから一度咳払いをしたのち、「夏目とは、高校からの付き合いだろ? 俺の印象ってどんなだった?」と尋ねた。
「付き合いってほど、話してもないし…」と小声で呟いた僕は、顎に手を添えて彼を眺め、「うーん、愛嬌と協調性があって、時にふてぶてしさを発揮するやつ?」と答えた。
「あくまでも理想的な営業野郎なんだな」
彼は戯けた素振りを見せつつ、「じゃあさ、誰と仲が良かったのか知ってる?」と続けて尋ねた。
「そんなの知らないよ」
「正解!」と勢いよく答えると、彼の大げさな身振りに灰皿から舞い上がった灰が季節外れの雪のように舞い散った。
「あぁ、やっちゃった……」と呟きつつ藤沢はそれを布巾で拭い、「高校の頃に親しかった奴なんてさ、俺もよく分からないんだよね」と言った。
「正直なところ、仲良くなりたいとすら思ってなかったのかも」
「それは、意外だね」
神妙な顔つきで話す彼の姿は、直前までのおどけた様子との落差が激しく、まるで別人のように思えた。
高校の頃に傍から眺めていた彼は誰からも慕われ、誰とでも親密で、そういった関係性に少なからず本人も満足しているものだと思っていた。
「どうして、仲良くなりたくないなんて思ったの?」
そう僕が問いかけると、彼はこちらへ向き直り、「だって、くだらないだろ?」と真顔で答えた。
「くだらない」
その言葉に彼が込めた密やかな熱量は、まるで青い炎のようだった。深い闇の底を思わせる、触れたそばから凍傷を起こすほどに凍てついた空気を帯びた彼は、慣れた様子でそれを抑えつけ、「話せる相手なんて、一人もいなかったな」と呟いた。
「僕には誰とでも仲が良さそうに見えたけど」
「夏目がそう言うなら、俺の努力も少しは報われたか」と答えた藤沢は、グラスを持った手に力を込め、「今まで俺が繰り返してきたのはさ、周囲の空気が偏らないよう平坦に均す行為か、自身がまずい立場にならないよう器用に立ち回ってただけだ。それで――」
しばしの沈黙を見せた彼は、グラスを鋭く睨みつけ、「嘘に、慣れちまったのかもな」と呟いた。
「気がついたらクラスの誰とでも気軽に世間話ができるくせに、まともに会話ができる奴なんて一人もいなかった」
世間話と会話の決定的な違いが僕には分からなかったが、学生時代の彼を思い返す限り、それは全くもって信じ難い話だった。
だが、目の前で彼が披露する見事な社交性と、時おり垣間見せる果てしない孤独感。その対極とも呼べる二面性は、すでに彼の話が虚偽ではないことを証明しているように思えてならなかった。
他人を一切気にかけてこなかった僕から人間関係についてどうこう言えたものではないが、本音を内に秘めたまま偽りの日々を送る過酷さだけは、嫌というほどに理解できる。
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