第3話

「もしもし、蛍? もうこっち着いた?」


「うん」


「家の鍵はいつものとこに置いてあるから。――覚えてるよな? 葬儀場の場所は携帯にも住所送ったけど、ばあちゃんの家とは違う駅だから間違えるなよ。あと、ちゃんとスーツに着替えてから来いな」


「わかってる」


 他人の世話を焼くのが人一倍好きな彼は、きっと母親譲りなのだ。分かりきったことを何度も確認するところが、時々鬱陶しくて仕方がない。


「あとはなんだろ。あぁ、腹減ってたら、冷蔵庫に昨日のいなり寿司あるから」


「アイスは?」


「アイス?」次男は一瞬考え込むように静かになり、「さぁ」と短く答えた後、「アイスがどうかした?」と尋ねた。


「……なんでもない」


 電話を切ると、僕はほどなくして家を出た。葬儀場へ向かうにはまた喧しいローカル線に乗らなければならない。先ほど歩いて来た道を戻り、駅の裏側から忍び込むように改札を抜けた。


 私服の薄っぺらいTシャツに比べ、スーツは蒸れるから嫌いだ。腕に掛けたジャケットは特に迷惑な存在で、肘の内側に汗が溜まる感覚がこの上なく不快だった。


 葬儀場の最寄駅に着くと、駅構内にある花屋で花束を買った。葬儀に相応しい種類などよく分からないので、ひとまず夏らしいものを店員に見繕ってもらうことにした。


 年配の女性店員はゆったりとした動作ではあるものの、正確に迷いなく引き抜いた花を組み合わせていく。祖母に比べれば随分と若いのだろうが、彼女が醸し出す空気感にはどこか懐かしさを覚えた。


 選び終えたものを確認のため見せられると、当然のことながら向日葵が含まれていたのでそれだけ除いてもらった。これくらい控えめな見栄えの方が、奥ゆかしい祖母には似合っていると思うから。


 二階建ての葬儀場はまるで体育館のような外観をしていた。外壁はタイル張りで、窓のカーテンは全て締め切られている。


 通りから覗いただけではとても葬儀を行う場所とは思えず、より健全な活動を行うために拵えた社交場のような活気すら帯びていたが、入口から項垂れた様子で姿を現す喪服姿の連中を眺めると、それらが纏う烏のようなどす黒い気配に周囲を覆われ、真っ黒な羽根で肌を撫でつけられるような感覚を覚えた。


 エントランスを入ると、正面の掲示板に本日葬儀予定の家名が書き連なっている。僕は部屋番号を確認し、クリーム色の階段を上った。


「おーい、蛍!」と、階段を上り切る前に声をかけられた。


 視線を上に向けると、受付から先ほど電話を寄越した二番目の兄が手招きしていた。母に似た線の細い身体で、相変わらず人懐っこい笑みを浮かべている。


「久しぶりだなぁ。元気にしてたか?」


 彼はそっと僕の肩に手を置き、「もうすぐ通夜始まっから。飯は? 食ってきたんか?」


「うん」


「そうかそうか! ひとまず、ばあちゃんの顔見てやってくれや」


 次男に案内されるまま、僕は扉の開け放たれた小部屋に入った。横並びにお行儀よく整列したパイプ椅子は、どれも最奥に設置された祭壇の方を向いている。中央の通路を残して配置されたその様子は、まるで小規模な卒業式を思わせた。


 椅子たちを横目に祭壇の前までやって来ると、端の方では母と長男、それに葬儀社らしき小柄の男性が小難しい顔で話し合っている。


「――おっ、蛍。着いたか」と、こちらに気づいた長男は呟くように声を発した。所帯を持ち始めてから、ひと回り太ったのが遠目に見ても分かる。彼が昔から掛け続けている縁なしの眼鏡は、今でも最上級の優等生らしさを演出していた。


 長男の声に反応して母もこちらへ視線を遣ったが、すぐに葬儀社の男へ向き直った。僕もそれには構わず、線香を立て始める。


 祭壇には花や果物、それに額縁に入った祖母の写真が飾られていた。昔からカメラを恥ずかしがった祖母は、写真の中でもどこか慎ましい笑みを浮かべている。


 棺桶を覗くと、彼女は綺麗に化粧を施されていた。その表情には疲れてちょいと一眠りしているだけという風情があり、今にも寝息を立てそうな気配すら感じられたが、それとは同時に、魂の宿らない人形と同じ無機質さがそこには確かに存在した。


「ただいま」


 耳元へ向けてそう囁くと、僕はしばらくの間祖母の寝顔を眺めていた。ほんの束の間のことだと思っていたが、気づけば隣に母の姿があった。


「あなた……、そんなの持って来られても困るわよ」


 母は僕が手にした花束を睨みつけ、「もう葬儀社さんにお花のコーディネートまで全部お願いしたんだから」と苛立たしげに言った。


「関係ないよ、僕には」


 僕は俯いたまま静かにそう呟き、祭壇の上へ乱暴に花束を置いた。母はじっと口を噤んだまま、鋭い眼差しで僕の動きを追っている。


 険悪な空気を察してか、長男がパイプ椅子を軽く叩き、「蛍、疲れただろ。こっちに座ってなよ」と言ったが、僕はそれに応えず無言で来た道を戻り始めた。


 両端に佇むパイプ椅子たちのそこかしこで僅かにどよめきが起きているように感じられるのは、きっと僕の心が歪んでいるせいだ。


「蛍……? おい、どした?」


 受付の次男が部屋を出て来た僕にそう声を掛けたが、背後で母が「構わなくていいから!」とヒステリックに叫ぶのが聞こえ、周囲はしんと静まり返った。

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