第4話
あてもなく、歩き続けた。
街ゆく連中は話し声がひたすら喧しく、マナーに疎い奴ばかりが目に付いた。周囲に気を配らない者が多いせいか、人通りはそれほどにも関わらず頻繁に肩をぶつけられる。
昔から、僕はこの街が大嫌いだった。
ずさんな都市計画によって推し進められた街並みは、至るところにビルや建物を継ぎ足して建設する羽目になり、公園や森林などの緑はほとんどが亡きものにされた。
どの方角を眺めても灰色のビルや悪趣味な電飾で埋め尽くされ、時おり見かける工場の煙突は、僕のざわついた気持ちをいっそう荒ませるものでしかなかった。
市街を歩くと、客引きに何度もつき纏われた。無視していれば大抵の者は標的を瞬時に切り替えたが、時にはしつこい輩もいる。
「……鬱陶しいな」
小声でそう呟いた僕は、とある男に突然胸ぐらを掴まれた。男は飛沫を飛ばし、耳を劈くような濁声で忙しなく怒鳴り散らしている。何をそれほど感情的になっているのだろうか。
周囲の者は少なからずこちらの遣り取りに関心を示すものの、よそよそしく目を逸らして通り過ぎていくだけだった。
茹で蛸のように赤い顔をした相手の無精ひげを、僕は黙って眺め続けた。
やがて正気を取り戻したのか、男は落ち着きなく周囲を見回し始めると、汚い捨て台詞を吐きながら足早にその場を去っていった。
「汚い……」
ジャケットの袖で顔を拭うと、僕はまた歩き始めた。
祖母の家に足が向かっていると気づいたのは、見慣れた高架下を通り過ぎた頃だった。改札鋏を片手に駅員が立っていた改札口も今では自動化され、裏手には二階のプラットホームへ通じるエスカレーターまで設置されている。
それでも駅前には、小さな公園や噴水など見覚えのある風景がいくつか並び、中にはあのスイミングスクールの建物もあった。今では巨大なショッピングモールとして数倍の規模に拡大補強され、悪魔城のように禍々しい姿と成り果てている。
線路に沿った坂道を階段状に切り取ったその建物には有名チェーン店が軒を連ね、イルカのイラストで描かれたあのマイナーなスイミングスクールの看板は、もはや見当たらない。
この街もずいぶんと変わってしまった。便利なものばかりが膨らみ続け、必要なものから淘汰されているように感じられた。
祖母の家は昔のままだった。灰色の瓦屋根をした日本家屋は年季の入ったコンクリート塀に囲まれ、入口に設置された黒いアルミ製の両開き門だけが真新しい印象を受けた。それでもいざ触れると、傷やへこみなどが所々に見られた。
門の中は塀の内側に沿ってノウゼンカズラが淡い朱色の花を咲かせ、庭先にはすでに雑草が生え始めているのが見て取れた。
縁側の外には風鈴が吊るされたままになっていた。主を失ったそれは時おり風に揺られて美しい音色を奏でるものの、僕にはその音が、悲しげなすすり泣きにしか聴こえなかった。
雨戸が締め切られ、さすがに中の様子までは伺えなかった。試しに戸の端を掴むと、ミシミシという不気味な音が鳴った。
外から眺めるよりも、この家は想像以上に歳をとっている。その感触にふと、僕は今まで自分が放り出してきた時間の重みを思い知った。およそ時間の凍結した日々を送り続けた僕は、唐突に未来へタイムスリップしたような虚しい気持ちにさせられた。
いつから、足を運ばなくなったのか。
ため息を漏らして俯いた先には、幼い頃ボール遊びをして傷をつけた箇所が見られた。この事は、ぼんやりと覚えている。
傷をつけたことで当然ひどく叱られるものだと予想した僕は、目の前で祖母が右手を振り上げた瞬間、肩を強ばらせて力いっぱいに目を閉じたが、彼女はゆっくりと僕の頭上に手を乗せるとそのまま優しく撫でつけた。
「元気があって良いねぇ」と、呑気な声を出して僕を見つめる祖母の眼差しは、いつだって慈愛に満ちていた。彼女はどんな時も、笑顔で僕を迎え入れてくれた。
『お前は、取り返しのつかない過ちを犯した!』と、僕の心は胸の内側から執拗に責め立てる。呼吸は次第に荒くなり、まるで胸が締め付けられるようだった。
「あれが、最後……」
静かに眠る祖母の前で繰り広げた、母との醜いやり取りを僕は思い返した。自分がどこまでも愚かしい人間に思え、ひどく腹が立った。
縁側に座り込んでぼんやり庭を眺めていると、やがて陽が沈んでいく。視界の先の橙色が徐々に光を失い始めたかと思えば、あっという間に辺りは真っ暗になった。
雲一つない、空気の澄んだ夜空には目障りなほど大きな月が浮かんでいる。今ではすっかり風も止み、風鈴も微動だにしない。それは永遠に損われてしまったように静まり返っていた。
僕は風鈴を指で軽く弾き、音を鳴らした。それはどこか耳障りな音を周囲に撒き散らしただけで、すぐにまた居心地の悪い静寂が辺りを包み込んだ。
気づけばポケットの中で携帯電話が鬱陶しく震えている。――どうせ次男だろう、お節介な奴め。
確認する気力すら持てず、僕はそのまま放置することにした。
わざわざこんな場所へやって来て、一体何がしたかったのだろう。祖母に会うために戻ってきたのではないのか?
けれども僕は、葬儀という名目上の儀式にはまるで価値を感じておらず、加えて母のいる場所になど、今さら戻る気にもなれなかった。
だからといって、祖母のために何が出来るというのだろうか。うじうじと庭先で項垂れ、後悔と怒りに震え泣く。結局のところ、僕にできることはそれくらいしかない。
祖母の家を後にした僕は、再び歩き始めた。
大通りに出ると飲食店が点在しており、そのうちの一つに『gloomy』と書かれた小さなビアカフェの看板を見つけた僕は、吸い寄せられるように足が向かった。
ひんやりとした打放しコンクリートに囲まれた狭い階段を降りきると、入口の重たいガラス扉を開いた途端に音楽が耳に入った。
何処かの誰かが奏でる神経質なロックミュージックに相応しく、店内の空気は奇妙に殺伐としていた。
扉を入った左側には奥へ向けてカウンター席が並び、右側の空間にはテーブルが乱雑に配置されている。それらを取り囲む赤い椅子はえらく硬そうで、まるでバランスの悪いこけし人形のように思えた。
天井では小さなミラーボールがゆっくりと回転し、壁に向けて毒々しい色の照明を反射させている。
適当なカウンター席に腰掛けると、僕は一番安いビールを一杯注文した。前髪の長い猫背の店員はわずかに頷き、気怠そうにグラスを手に取った。
店内には僕を含め、客の姿は数人しか見られない。
入口付近のテーブル席ではギターケースを壁に立てかけたバンドマン風の男二人組がノートパソコンを広げ、二人でこそこそと話し合いながら液晶を指差している。奥のテーブル席には歳の離れた男女のカップルが横並びに密着して座り、顔をニヤつかせながら耳打ちし合っていた。
そしてもう一人、ひどく静まり返った二組をよそに、カウンターで店員に向かって喧しく話しかける男の姿があった。
「――だからさぁ、俺は言ってやったのよ。やっぱ太いほうが良いでしょって。細くっちゃ何だか物足りないよね? まぁ、慣れの問題だろうけどさ」
よく通る声をしたその男は何事かについて熱心に語っていたが、内容についてはさっぱりだった。
運ばれてきたビールを一口含み、嫌でも耳に入る声を聞きながら僕は静かにため息をついた。すると、視界の隅に僕の姿を見た男は、突然口を閉じてこちらを覗き込み、怪訝な表情を浮かべ始めた。
「またか」と思いながらうんざりした顔で僕が睨み返すと、目を細めた男は「夏目?」と呟くような声で尋ねた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます