第5話
まさかこんな場所で自分の名前が呼ばれるとは思ってもみなかった僕は、わずかに口を開いたまま相手を見つめ返した。
相当間の抜けな表情を浮かべていたのだろう。男はへらへらと笑みを浮かべ、「あ、やっぱり夏目だ。マスター、ちょっと席変わるね」と言いながら、僕の隣へ移動してきた。
「ちなみにさ、俺のこと覚えてる?」
移動してくるなり、男は僕の顔をまじまじと見つめながらそう尋ねた。なんとも馴れ馴れしい奴だ。
だから僕は、「覚えてない」とだけ素っ気なく答えてやった。
「……そっか。同じクラスでもなかったしな」
男は残念そうな表情を浮かべると、手に持ったグラスの液体を口に含んだ。
「同じクラス?」
中学か高校の同級生だろうか。けれども僕には、親しい友人の心当たりなどなかった。
頬の痩けた、細い釣り目の二重瞼、――そして妙に印象に残る皺の寄った笑顔。近くで見ると、どこか見覚えがあるような気がした。
「もう少し、ヒントをくれない?」
残念がる彼の様子が妙に心苦しくなり、僕は観念してそう言った。
「ヒントって。やっぱおもしろいよな、お前は」と笑い声を上げた男は、自己紹介をするように自分を指差し、「藤沢だよ。藤沢秋」と言った。
フジサワ……。
名前の響きに反応して僕が思わず「あっ」と指差すと、彼は嬉しそうに頷きながら、「思い出した? 高三の時は夏目と同じ特進クラスで、教室はお隣さんだったよ。体育の授業とか、あと移動教室の時は一緒だったよな?」
「さぁ、どうだったか」
「いやいや、今のは完全に思い出した反応だったろ」と言いながら、男は派手に笑っている。
実のところ、名前を耳にした瞬間から頭の中に薄っすらと情景が浮かんではいた。けれど彼のように調子の良い態度を示すことが、僕はどうにも苦手だった。
この男は高校時代からよく目についたものだ。合同授業で現れた際には妙に張り切った様子を見せ、常に誰かと輪になって楽しげに話していた。
女子にも先生にも、飼育小屋の兎にすら好かれそうな奴で、僕とは全く縁遠い存在だと思った記憶がある。
「引っ越したって聞いたけど、帰って来てたんだな。夏目もこの辺に住んでんの?」
「ばあちゃんの葬式で、一時的に帰省してるだけだよ」
「あぁ、……葬式か。だからそういう感じなわけね」
彼は納得したように頷き、僕のスーツを下から順に眺めている。「式はこれから? それとも、もう終わったの?」
「どうだろ。今頃は通夜の真っ最中かも」と僕が答えると藤沢は首を傾げ、「じゃあ、夏目は何でこんなとこにいるんだ?」と僕を指差した。
「顔はもう見てきたから」
「いや、そういう問題じゃないだろ」
彼は指差した手でカウンターを軽く叩き、「通夜の間って、遺族がそばについてなきゃいけないんじゃないの?」と尋ねた。
僕は手に持ったグラスの泡が徐々に減り始める様子を眺めるように一点を見つめ、「そんなの。僕にはどうでもいいから」と静かに答えた。
藤沢は黙ってこちらの様子を伺っていたが、しばらくして、「……ばあちゃんのこと、そんなに嫌いだった?」と遠慮がちに尋ねた。
「ちがっ……!」
つい、苦い顔をしてしまった。
脳裏には狭苦しい柩の中に押し込められた祖母の白い顔が浮かび、僕は小さくため息を漏らしながら、「どうでもいいのは、形式みたいに済まされる葬儀のことだよ」と答えてビールを一息に飲み干した。
「形式?」
藤沢はまたも疑問げに首を傾げている。
僕はグラスを叩きつけるようにカウンターの上に置き、「そうだよ、あんなの。ばあちゃんのこと大して知りもしないくせに……。雰囲気だけ畏まって来る奴らを見てるのは嫌なんだ」
「あぁ、そういうこと」
藤沢はカウンターに頬杖をついてこちらを眺め、「あれ、結構きついよな」と言った。「でもさ、みんながみんなそうでもないだろ」
「ゼロでもない」
僕はムキになって、彼の顔を睨みつけた。
こんなほとんど顔も覚えていないような男に何を話しているのだろうか。けれど、紡ぎ始めた言葉は容易には止まってくれそうになかった。
「そんな気持ちで来られても、ばあちゃんが迷惑するし、それに……」
僕は思わず目を逸らしながら、「不機嫌そうな顔で僕が隣に立っても、ばあちゃんは全然嬉しくないだろうから」
きっと、誰でも良かったんだ。
たとえ繋がりの希薄な同級生だろうと、反吐に塗れた酔っぱらいだろうと、道端に生えた名もない雑草だろうと、相手は何だって良かった。ただ聞いて欲しかった。
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