第2話

 二階の自室に荷物を置くと、エアコンをつけて持参したスーツに着替えた。久々に使用する空調に黴臭さが感じられないのは、念入りに手入れがされているせいだろう。


 そんなものの繁殖を彼女が許すとは思えなかったし、仮に見つけたとすれば家中に燻煙剤を炊きかねない。彼女は以前にその行為を衝動的に始めたことで、ご近所からボヤ騒ぎだと勘違いされた経験があった。おかげでその頃は一家揃って有名人だ。


 黒縁の眼鏡をかけ直し、鏡に映った自身のもじゃもじゃ頭を眺めていると、どうにも公の場には相応しくない風貌に思えた。天然パーマが正装をしたところで、間抜けな印象が一層際立つだけなのだろうか。


「…………」


 僕の部屋にはほとんど物がない。五畳ほどの空間にシングルベッドと洋服ダンスがそのまま残されているが、私物はすべて一人暮らしの家に運んだため、壁の一面がぽっかりと空いている。


 それでもやはり長年住んでいた部屋の面影は十分に感じられ、それが何故だか僕の胸を苦しくさせる。


 過干渉だった母は、息子たちの部屋を毎日隅々まで見て回った。それはまるで禁固刑を受けた囚人のような心地のするもので、思春期の少年たちにとっては極めて煩わしい環境となったが、それでも優秀な兄たちは母の言いつけを守り、身の回りを潔癖に保ち続けていた。


 ただ一人言いつけを守らなかった僕は、”躾け”という名の激しい罵りを受けた。


 そういう僕もまた、中学に上がる頃までは兄たちと同様に良い子の一員だった。「触れるな」と言われたものには一切触れなかった。「話すな」と言われたお友達とは、……話すことをやめた。


 滑り台もジャングルジムも鬼ごっこも駄目。大衆的なお遊びからは徹底的に隔離され、代わりにピアノやチェロなど、高尚な習い事を強要された。


 楽器の演奏がとりわけ苦手という訳でもなかったが、その気でないものを無理強いされることに対し、僕は幼心に違和感を覚えていた。


「蛍ちゃんは、泳ぐの楽しい?」


 ある日のスイミングの帰り道、祖母は何気ない調子でそう尋ねた。


 僕はチョコミントのアイスをちびちびと齧りながら、「水にうかぶのは、楽しい。でも、泳ぐのはつかれるから、あんまり好きじゃないかな」と答えた。


「泳ぐのは嫌い?」


 祖母が不安げな顔で聞いたので僕は首を振り、「ううん。嫌いじゃないよ」と答えた。


「ちょっと苦手なだけ。でも、お母さんにはこの事ないしょね。またやめろって言われちゃう」


「あら。むしろ良かったじゃない」


 祖母はひときわ柔らかな笑みを浮かべ、「苦手だから、習う価値があるんでしょ」と言って人差し指を立てた。


「……そっか。そうだよね」


 祖母の言葉には、不思議と説得力があった。まるで泥に塗れた僕の心を清らかな水で洗い流してくれるような、そんなさっぱりとした感覚。眺める視点によって、こうも解釈が変わってくるものかといつも驚かされた。


 スイミングをきっかけに、その頃から僕は祖母の家に入り浸るようになった。


 僕にとっては単なる逃避行為でしかなかったが、祖母は家を訪れるといつも嬉しそうな顔で部屋に招き入れてくれた。中学の頃はCDや文庫本を買い漁り、こっそりと保管を頼んだものだ。


 祖母の家の最寄り駅からほど近いところにスイミングスクールがあるため(実家からほんの二駅という距離だが)、『スイミングの日はばあちゃん家に泊まる日』という暗黙のルールがいつしか出来上がっていた。


 週に一度のこの時間だけは普通の子供らしく、気ままに過ごすことができた。


 父が家を出て行った頃から母の掃除時間も増え始め、息子たちに対する圧力も次第にひどくなった。長男、次男は従順に母の期待に応え続け、今では上が銀行員、二番目は弁護士となっている。僕だけが母の考えに異を唱えるはぐれ者だった。


 彼女は僕を親不孝ものだと罵り、悲観し、時には手をあげることもあった。


 そうして僕は、徐々に自分の殻へ閉じこもるようになった。


 友人と呼ぶべき間柄もこの街にはいない。母に言われるまま、自ら拒絶し続けてきたのだ。できるはずもないか。


 祖母はどんな時も中立的な立場を貫いていたが、それはある日のレッスンが行われた翌日の朝方だった。


 祖母が僕を自宅まで送り届けてくれると、その日は家族揃って不在だったため僕は当然のように鉢植えの下から鍵を取り出した。それを祖母に見せると、彼女は驚いたように目を見開き、「……まだ、続けてるのね」と吐息交じりに呟いた。


 若かりし頃の祖母は、結婚してからも長い間共働きを続けており、昼間は両親揃って家を空けることも多かったそうだ。一人娘だった母は学校から帰宅すると鉢植えの下に置かれた鍵を取り出し、誰に言われるでもなく毎日の家事をこなしていたのだという。


「昔から根が真面目なだけなのよ。許してあげてね」


 瞼の形を綺麗な三日月型にして微笑みながら、その時の彼女は何を想って僕にそんな言葉を伝えたのだろうか。


 その日から、僕は母のことを理解したいと思うようになった。実際に何度か歩み寄ろうともしたけれど、何を言っても裏目に出てしまい、よく口論になった。


 そんな繰り返しの末、歳を重ねるにつれて僕の中では母に対する拒否感が徐々に膨れ上がり、もはや容易には拭い去る事が出来ないほどに致命的なものとなりつつあった。


 わずかに音を感じて机の上を見遣ると、いつからか携帯電話が震えていた。液晶には次男の名前が表示されている。


 僕は気乗りしないままそれを手に取り、通話ボタンを押して耳に当てる。

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