第1話

 小学生の頃、僕は小さなスイミングスクールに通っていた。


「他の子と水に浸かるなんて、……不潔よ」


 冷ややかにそう言い捨てた母は、初めは断固として通わせてくれなかった。僕はただ、広々とした空間で水中に浮遊する感覚を味わってみたかっただけなのに。

 その話をどこからか耳にした母方の祖母が、ある日我が家にやって来た。


けいちゃんは、私が責任を持って連れて行くから」


「でも、お母さん……」


「たまには、孫の役に立ちたいもの」


 苦笑いを浮かべて祖母がそう訴えると、母は何も言い返せなくなった。おかげさまで、何とか許可は下りた。


 レッスンは毎週金曜日に行われ、送り迎えに来た祖母は帰り際に同じ建物内に併設されたアイスクリームショップで好きなものを一つ買ってくれた。僕の好きな味はチョコミント。打率五割を越える常連さんだ。


 世間では好き嫌いがはっきり分かれる味だと言われており、「まるで歯磨き粉の味だ」とか、「食べ物の色じゃない」と容姿を忌み嫌う者もいた。


 それを言うなら、茄子だって光沢のあるまん丸とした紫色が遠くから見るとカブトムシのようだし、チアシードなんかは水中を漂う無数の卵にしか思えない。


 なにもライバルたちを傷つけたくてこんなことを言う訳じゃないんだ。ただ、チョコミントにだって言い分はある。


 その日祖母が迎えに来たのは、夏の季節特有の強烈なにわか雨が降りやんだ直後だった。


 ショーケースにへばりつき、いつものように僕がアイスクリームを選んでいると、「蛍ちゃん、外に虹が出てるよ」と彼女はこっそり教えてくれた。


「ほんと!?」


 アイスを受け取るや否や、僕は祖母を残して一人大慌てで駆け出した。建物の入口を出たところで空を見上げ、燦燦と降り注ぐ陽光に目を細めてあちこち視線を移すと、晴れ渡る空色のキャンバスにくっきりとした七色のアーチが掛かっていた。


 そのあまりに鮮やかな色彩から、僕の脳裏には自然とうずまき状のキャンディーが連想され、放物線を描いて空を跨ぐ七色を見つめながら、いつかあの上を渡れたらどれほど愉快だろうかと想像を巡らせていた。


「すごいすごい!」


 夢中になって腕をぶんぶん振り回した僕は、コーンの上からアイスを盛大に吹き飛ばした。宙を舞ったエメラルドグリーンの固体は一瞬にして熱を帯びた地面に叩きつけられ、衝撃により原型を失うと急速に溶け始めた。


 それがまるで撒き散らしたペンキのように流れるさまを、僕は黙って見つめていた。


 日差しが、とっても強い日だった。


 遅れてやって来た祖母は、とっくの昔に地面の醜い染みと化したそれを見遣ると、「あら、落としちゃったのねぇ」と優しく声をかけてくれたが、その時の僕はどういうわけか、「ううん、もう食べちゃったんだ」とあからさまな嘘をついた――。


 座席の肘掛けで頬杖をつき、右手の窓外を流れる富士山を眺めた僕は、あの時の祖母の表情について思い出そうとしたが、辛うじて脳裏にこびり付いていたのは、逆光を背に立つほっそりとしたシルエットだけだった。


 三日前、祖母は自宅の庭で倒れているところを通いのお手伝いさんに発見された。すぐに病院へ運んで処置を施したがそのまま危篤状態となり、昨晩遅くに息を引き取ったとの知らせが入った。


 僕は大学を休み、新幹線に乗って祖母の住む街に向かっている。あとほんの少し早く駆けつけていれば、生きた祖母の姿をひと目見ることができたかもしれない。ひょっとしたら、言葉を交わすことだって。


 今さら仮定の話をしても無意味だということは理解しているが、それでも、考えずにはいられない。


 新幹線を降りると、自宅の最寄り駅まではローカル線を二つ乗り継いで行く。僕が到着する時分には通夜の準備が始まっている頃だろう。


 葬儀は母を中心に執り行われる。祖父はずいぶん前に他界しており、父は僕がまだ幼い頃にほかの女と出て行ったので、実質的には母と、比較的近所で所帯を持った長男、それに実家住まいの次男といったところか。


 末っ子の僕は、当然頭数に入らない。大学に行ってからは、家族ともろくに連絡を取らなくなった。母とはもう何年も言葉を交わしていない。――恐らくとうの昔に、僕は見限られたのだろう。


「変わらないな」


 車内から眺める地元の景色は寂れた鉄塔や電線ばかりが目につき、荒涼とした印象を受けた。


 乗客はそれほど多くないが、個々の話し声はひどく喧しい。満席ともなればちょっとした合唱コンクールが開けそうだ。それも決まって、蛙のように濁った低声のハーモニーに限るけれど。


 僕はイヤホンを耳に突っ込み、レディオヘッドの悲壮感漂う曲を流しながらゆっくりと(されど力いっぱいに)目を閉じた。


 自宅の最寄駅に到着すると、駅の裏側に通ずる改札からひっそりと通りに出た。掃き溜めのような臭いは相変わらずだ。


 念のため呼び鈴を鳴らしてみたが、実家の扉は僕を見下ろしたまま沈黙を貫いている。庭に入ってガーベラの植木鉢を持ち上げると、昔と変わらず左から二番目の下に鍵はあった。


 いいかげんスペアキーを作れば良いものを。ご丁寧にビニールのジップパックを使うところがあの人らしい。


 鍵を拾い、玄関マットで靴の汚れを念入りに落としてから中へ入った。蒸し暑い空気に混ざり、嗅ぎ慣れたクリーンリネンの香りがこれでもかという程に漂っている。


 見たところ、僕が家を出た頃と比べて変わりはないように思えた。玄関の靴は均等に並べられ、棚の上には一ミクロの埃すら見当たらない。


 病的なまでの潔癖症を患った母は、生活のほとんどを掃除の時間に充てている。それはまるで、日々の洗練された儀式のように絶えず行われてきた。彼女は換気扇のファンを分解して洗い、窓枠の溝を磨き、天井だって毎日拭いていた。


 匂いには特に敏感で、帰宅するといつだって室内は清潔な空気で満たされていたのだが、却ってそれが息の詰まる感覚を呼び起こすのは、やはり僕に問題があるのかもしれない。

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