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あるときワタルは一学年下の女生徒から告白された。生徒会の後輩で、名前はチカちゃんと言った。アユカとも仲が良く、二人で「チカちゃん」と呼んで可愛がった。チカちゃんはワタルのことを「先輩」と呼んだ。チカちゃんは、ワタルとアユカの関係については知っていたが、そのせいなのか、ワタルに対して積極的にアプローチをしてきた。ワタルも最初は相手にしなかったが、チカちゃんのひたむきさに、徐々に心を引かれるようになっていた。ちょうどアユカに対する気持ちも、冷めてきたところだった。アユカのことを抱きたかったが、そうすることでアユカの重荷を背負わなければならないのは、割にあわない気がしていた。アユカはワタルを受け入れようとしていたが、いかにも無理をしている感じがして、気が削がれた。
一方チカちゃんはワタルに嫌われたくなかったから、基本的になんでも言うことを聞いてくれた。ワタルはデートもそこそこに、チカちゃんに体の関係を求めた。チカちゃんはためらうこともなく、あっさりとYシャツのボタンを開き、ワタルの手を下着の中に導いてくれた。ワタルは拍子抜けするとともに、これが普通だと思った。アユカとの関係はどこかおかしかったのだ。
チカちゃんとは、休みの度にお互いの家で体を触りあったが、それ以上の行為に進展することはできなかった。チカちゃんの中に入りたくても、ワタルはうまく要領がつかめなかった。チカちゃんも、アユカと同じように小柄な体つきで、それがうまくいかない理由なのかとワタルは思った。それでもチカちゃんは手でワタルを射精まで導いてくれた。
「アユカちゃんとは、こういうことしなかったの?」
あるときチカちゃんが、ワタルにたずねてきた。チカちゃんはアユカのことを「アユカちゃん」と呼ぶ。その日もワタルの家で、ひととおり体を触り合い、果てた後に裸で並んでベッドで寝そべっているところだった。そういえば週末はこんなことばかりで、二人でデートに出かけることは、ほとんどなかった。ワタルはそのことを咎められたような気がして、チカちゃんに悪いことをしたような気がした。
「したことないよ。だってあの子は別の人とやりまくってるんだから」
「へー、意外。アユカちゃんて、そういう人だったんだ」
「そういう人」のニュアンスで、チカちゃんが、ワタルの言葉を取り違えていることがわかった。ワタルはアユカの父親のことを言ったつもりだったが、いちいち訂正するのも面倒なので黙っていた。アユカとは口をきかなくなり、関係は自然消滅していた。借りた洋楽のアルバムも、返せないままだった。
チカちゃんとの関係は、卒業式の直前に終わった。一週間前には、ワタルの進路も決まり、チカちゃんもその高校へ行くことを約束したばかりだった。春休みにはディズニーランドへ行くことになっていた。それらはすべて白紙になってしまった。
「先輩は、結局わたしのことなんか、見てくれない。最初からそうだった。それが、つらい。先輩は勝手すぎる」
ワタルは、そんなことはない、心の底から愛してる、と言ってみたが、チカちゃんには通じなかった。確かに愛していなかったのかもしれない。早くアユカちゃんと寄りを戻した方がいい、とも言われた。
「アユカちゃんは、先輩と同じ高校に行くんだよ。ぜったい、先輩が戻ってくるの、待ってるんだよ」
高校に入学してから、ワタルはアユカに関して、妙な噂を耳にするようになった。それはアユカが、誰でも頼めばやらせてもらえる、サセコだという噂だった。
■
卒業制作は越川に見せる事なく、次の日の放課後に提出した。
「何も言ってこないから、挫折したのかと思った」
と諏訪は笑った。出来上がりを見て満足そうにしている。
「あとは先生次第ですからね。ちゃんと大賞取れるよう根回ししてくださいよ」
「私じゃなくて、審査の先生次第だね」
返ってきたのは、極めて面白みのない、公務員的な返事だった。それでも私はほっとした。加藤とも越川とも無縁の人間と話すと、今までにないくらいリラックスできた。おかげで私の舌はいつも以上によく回り、そして上手に受け答えをする諏訪が、世界でいちばん大切にすべき女性に思えた。
その次の週末にセンター試験があった。前日に雪が降り、当日はよく晴れたが、歩道には雪が山になっていた。センター試験を受けたのは、クラスで私だけだった。一月の後半には、あと三つの大学の試験を受けなければならない。今更遅いが、問題集を解き始める。授業の合間に問題集を開いていれば、話しかけてくる者は誰もいない。ただでさえ短い三学期だったが、記憶には何も残らなかった。
二月の二週目から合否通知が電信で来始め、全て不合格である事が確定した。当然の結果だ。ぎりぎりまで勉強はしたが、いくらなんでもスタートが遅すぎた。
親とは浪人しないと約束しているので、なんとかしなければならなかった。ハローワークにでも行って、四月からの仕事を探すか、働くのが嫌なら、専門学校を調べなければならない。専門なら金さえ払えば、今からでも入れる所があるだろう。とりあえず高校へ行ってみる事にした。
昼休みを狙って職員室へ行き、担任に事情を話す。担任は同情してくれ、すぐに進路指導室へ行けと指示する。進路指導室は、北側の校舎の一階の隅にあった。そんな場所があるなんて、今まで知らなかった。早速そこへ行って、二次募集をしている大学の願書をもらった。二次募集という発想はまったくなかった。帰り道、私はどこかで諏訪に会えることを期待したが、諏訪はどこにもいなかった。寒さのせいか、廊下を歩いている人も、まったくいなかった。体が完全に冷えてしまった。私は完全に部外者のような気分だった。
家に帰ると、早速願書を書き、郵送で提出した。三月に試験があり、合格発表は卒業式よりも後だった。
二月に数度学校へ顔を出し、三月は二回行くことになっていた。一回は卒業式で、その前に卒業式の予行があった。予行なんて誰もが面倒だと感じていたが、私はそこで表彰をされた。
朝のホームルームで、担任から私の小説が賞を獲った事を発表された。最優秀賞ではなく、優秀賞だった。今日の予行の前に、校長より賞状が授与されるとの事だ。後ろから、越川の「まじかよ」という声が聞こえてきた。何がまじなのかわからなかったが、教室内は若干沸いた。私は卒制なんてすでに頭の中に欠片もなかったし、賞をもらったからなんなんだという気分だった。反射的に加藤の部屋での出来事を思い出し、自分を殴り飛ばしたい気持ちになった。加藤がどんな顔をしているのか、振り返って確認したかったが、その勇気はなかった。
ホームルームが終わると、何人かのクラスメートから、祝福の言葉をもらった。北山や小関や猿渡に取り囲まれ、簡単なインタビューを受けた。小関が「ホラーなんでしょ?」と聞いてきた。猿渡が「違うよ、恋愛小説だよ」と反論する。悪くない気分だ。さらに皆藤が寄ってきて「安藤最高!」と肩を組んでくる。一体何の賞なのか、知っているのかかなり怪しい。皆藤はとにかく大騒ぎがしたいだけだ。皆藤はこのクラスが終わることに、人一倍寂しさを感じているようだった。
体育館で名前を呼ばれ、壇上にあがる。最初に最優秀賞を獲った女子が呼ばれて賞状を授与され、その後が私だった。こんな間近に校長を見るのは、初めてだった。受けとった後も全員の授与が終わるまで、その場で待機させられる。私は壇上から全校生徒を見下ろす。
最初に壁際に並ぶ教師の中から、諏訪を探した。諏訪は隣の教師と何かを熱心に話し込み、私の方はまるで見ていなかった。私はしばらく諏訪を見続けたが、まったく変化はなかった。仕方がないので、自分のクラスを見る。知っている顔が並んでいるが、表情までは読み取れない。越川を見ると、胸の前で親指を上げた。私はぎこちなく手を振って目をそらした。加藤を探す。加藤は相変わらずマスクをしている。髪が伸び、後ろで一本に縛っている。これだけ距離があると、気まずさも消え、躊躇なく見つめることができる。改めて考えると、こうしてまともに加藤の姿を眺めるのは、始業式前日以来だった。加藤を抱こうとして、泣かれてしまった。私はいい加減、加藤には、何も感じなくなっていた。手をつないだり耳を触りあったのも、もう遠い過去の出来事だった。
加藤が私を見る。目が合ったことにお互い気付く。すぐに目をそらしたくなるが、こらえて加藤を見続ける。加藤も目をそらさない。やがて加藤がマスクを下にずらす。
「おめでとう」
露わになった、加藤の口の形がそう動く。それだけ言うと再びマスクをつける。私はその場で固まってしまう。言いようのない感情に、心が支配される。「ありがとう」と言いたいが口がうまく動かない。やがて加藤は下を向いてしまう。司会の教師が号令をかけ、私は舞台から降りる。
「まったく、あなたも受験やりながら、小説だの恋だの忙しいね」
卒業式が終わったら、真っ先に諏訪の元に行った。卒業制作のお礼を言いながら、失恋したことを報告した。
「恋をしなきゃ小説は書けませんよ」
「そういうこと言うキャラだったっけ?」
「卒業だから、なんでもありです」
諏訪が噴き出す。
「そうね。言いたいことは言った方がいいね」
「諏訪先生も、恋してください」
「考えとく」
一瞬間があった。諏訪が軽く息をつく。
「主人がね、亡くなって三年なの。わたしもそういうことを、始めてもいいかもしれない」
「え?」
「地学の教師で、せっかく地盤が硬くて地震でもあまり揺れないところに家を建てたのに、家より先に倒れやがって」
そう言うと諏訪は口角を上げて眉毛を上げ、コメディアンみたいな笑顔をつくって見せた。
そのとき私の背後から女子生徒数人が「諏訪せんせーい」と、声を上げながらやってきた。私以外にも、諏訪と別れの挨拶をしたい生徒はいるのだ。私は会釈をしてその場を離れた。結局小説の感想を聞きそびれてしまった。
越川から電話があったのは、翌日の午後だった。
「お前」
そう言ってから間ができた。電話の向こうで越川は息を切らしている。
「全然違うじゃねーかよ。加藤に振られたって。聞いたら、本人は振ってないって言ってたぜ?」
越川の指摘はその通りだった。私は加藤にサセコか確認しただけで、自分の気持ちは言ってない。
「同じ事だろ?」
「どこがだよ。お前はすぐそうやって、自分の都合のいいように解釈する。本当バカだよ」
「うるせーよ、てか、加藤と話したんだ?」
「ああ、約束だったろ?」
約束なんかしていない。越川が勝手に宣言しただけだ。
「なんか、かけづらくって、結局卒業式もすぎちゃったけど。謝ったよ。謝って許してもらえるもんじゃないけれど」
私にかける前に、越川は加藤と話をしていたのだ。息を切らしている理由がわかった。
「加藤はなんて?」
「わからん。でも、とにかく俺は謝り続けるしかないよ。ていうか、安藤?」
「なんだよ」
「まだ加藤のことが好きだろ?」
「いや、わかんない」
「わかんないじゃないだろ、わかれ」
「お前少し落ち着けよ。うぜーよ」
「加藤が、謝りたいんだって、安藤に。直接会って」
持っていた受話器を、落としそうになる。私は加藤には、もう一生会わないつもりでいた。卒業式のときも、極力見ないようにしていた。
予行練習の日に表彰されたとき、壇上から加藤を見たときのことを、思い出す。加藤は声に出さずに「おめでとう」と言った。あのとき加藤はどんな気持ちだったのだろうか。
「加藤に会ったら、告白しろよ。どうなるかわかんないけど。ダメなら会わないだけだし、いいだろ?」
越川は、私と加藤がつき合えば、自分の罪が軽くなると思っている。あまりに虫が良すぎる。しかし、そんなことは、どうでもいい。私は私の気持ちにだけ、こだわればいいのだ。それに、仮に私と加藤がうまくいったとしても、越川の罪が消えるわけではない。一瞬そのことを言おうと思ったが、やめておいた。私は越川のことも、やはり好きだった。
「それから、小説。読んだけど。俺に見せてれば、最優秀賞だったのに。加藤はダメだよ。加藤には文学はわからない」
卒業制作は、一定期間図書館に展示される。
「加藤だって本は読むぜ?」
「推理小説だろ? あんな軽いのダメだよ。安藤だってわかるだろ? 加藤には文学はわからないよ。音楽はよく知ってるけど」
「俺は賞なんか別に良かったけど」
「まあどっちでもいいよ。安藤、書き続けろよ。あ、もうこんな時間だ。安藤、四時にグラウンド行けよ。グラウンドって俺は知らないんだけど。安藤んちの近くにグラウンドあるだろ?」
夏に、加藤とアイスを食べたグラウンドのことを、言っているのだろう。
「あそこで、四時に加藤が待ってるから。すぐ行け。行って告白しなさい。ちゃんとお膳立てしてやったんだから」
時計を見ると四時まで十五分しかない。私はひっくり返りそうになる。
「お前ふざけんなよ。もう時間ないじゃん」
「じゃあな、安藤。元気でな。元気に小説を書きなさい。また、読んでくれる人を見つけて、その人のことを大切にしなさい。加藤とお幸せに」
一方的に喋ると、越川は電話を切ったしまった。唐突な展開に、騙されている可能性も疑ったが、それでも行かないという選択肢はなかった。コートを羽織り、自転車に飛び乗ると、急いで坂を下る。坂の脇には民家の塀があって、その上から梅の白い花が、顔をのぞかせている。
グラウンドに到着すると、一塁側のベンチに誰かが座っているのが見える。遠目に見ても、それが加藤だとわかった。加藤はこちらに背を向けている。夏に来たときは、コンビニでアイスを買ったから、反対側から入ったのだ。私は自転車を止めるとネットの脇を抜け、ゆっくりと加藤に近づく。足の力が抜け、何度も立ち止まりそうになるが、深呼吸をして徐々に距離を詰めていく。風が吹いて、砂ぼこりが巻き上がる。それを合図に、加藤がゆっくりと振り向く。
■
全ての記憶は遠ざかる程にその解釈が変わり、いずれは風化する。ワタルはそれに抗う手段を考え、物語を綴ることを思いつく。
ノートを開くと、そこに文章を書き始める。
『加藤がサセ子、つまり誰とでもセックスをする女だという噂は......』
■
あれから20年以上経つが、越川とは音信不通のままだ。
〈了〉
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