23
翌日から新学期が始まった。始まったが、高三の三学期は一瞬で終わる。二月からは自由登校という名の春休みに入り、卒業式までは週に一回しか出ない。加藤とは気まずい関係になってしまったが、あと一ヶ月の我慢だ。
登校して自分の席へつくと、机の上に封筒が置いてある事に気付いた。開けてみると、私の卒業制作が入っていた。驚きはしたが、考えてみたら当然だった。加藤からしたら返さないわけにはいかないだろう。一本早い電車で来て、机の上に置いておくのはそれ程難しい事ではない。それでも私は加藤が返してくれなければいいと思っていた。私は慎重に加藤の姿を探すが、教室内には見えなかった。戻ったきたのはホームルームが始まる直前で、顔に大きなマスクをしていた。
「ひとつ、残念な報告がある」
ホームルームが始まり、簡単な新年の挨拶の後、担任がそう切り出した。騒がしかったクラスが水を打ったように静かになる。
「蛭田が、二学期をもって学校を退学した。自主退学だ」
クラス全員の視線が、私の隣の席に集まる。そういえば私の隣の席は空席になっている。言われるまで気づかなかったし、蛭田の存在も忘れていた。担任はさらに話を続けるが、具体的な理由には触れず、残念だ、無念だと繰り返すのみだった。それに対して意を唱える者はいない。静まりかえっている。正直言って、微妙な心境なのだろう。蛭田が学校を辞めても、誰も心を痛めたりしない。だからと言って喜ぶほどの相手でもない。ただ、高校生活のクライマックスにきて、誰かが居なくなれば、一瞬自分のせいではないかと思う。おそらく蛭田が退学した本当の理由は、担任も含めて誰にもわからないだろう。越川を除いて。
越川は私の真後ろの席だから、どんな顔をしているのか伺い知る事ができない。それ以前に学校に来てるのか。私は今日は、加藤の存在しか確認していない。振り向いて確認したいところだが、この雰囲気では大きな動きはできない。
全校集会で越川の姿を確認し、放課後図書館へ呼び出す。越川は、妙に機嫌が良かった。私は構わず、蛭田のことを聞く。
「ていうか蛭田はどうした?」
「知らね」
「知らね、て付き合ってるんだろ?」
「別れた」
「いつ?」
「休み入ってすぐ」
越川は受け答えを、必要最低限の単語で済ませようとしている。
「相談とか受けてたんじゃねーの?」
「受けてない」
「受けてなくたって、態度とかでわかるだろ? お前蛭田の事好きだったんだろ?」
「今から考えると、そんなに好きじゃなかったかも」
越川が蛭田に対して、どの程度の恋愛感情を抱いていたかなんて知らないし、そもそも興味がない。はっきり言えば蛭田は不細工だし愛想もないので、いなくなったからといって、大して気持ちは動かない。越川の発言についても、普段の私なら「ああ、そう」くらいの気持ちしか抱かないだろう。しかし、その時は、越川の態度に我慢がならなかった。
「ふざけるなよ、お前。恋愛とか舐めてんじゃねーよ」
自分でもなんて寒い事を口走ってんだと思った。
「お前どうしたんだよ、急に」
越川が笑い出す。無理もない。が、気に入らない。とにかく私は今、越川と喧嘩がしたくてたまらない。もう考えるのが面倒なので、殴りかかりたくなる。しかしそれは面倒な事になる。私はまだまだ冷静だ。
「だいたいさ、お前はそうやって加藤のことも振ったんだろ? 本当、最低の偽善者だな」
必死に越川を挑発する文句を考え、出てきたのがこの言葉だった。越川の顔色が変わる。
「なんで、加藤が出てくるんだよ」
「うるせーよ。どうせそうやってお前は女をいいように扱って、飽きたらゴミみたいに捨てるんだろ。クソ野郎」
「加藤が何か言ってたのかよ?」
「知らねーよ。誰がお前なんかに教えるか。あほ」
越川は顔を真赤にして、しきりに加藤の事を聞いてくる。案外単純だ。
「ふざけんな言え」
「てめーなんかには、死んでも言わねー」
「言え」
「やだ」
図書館ということもあり、お互い声は最小限に抑えているが、雰囲気は異様だった。司書がカウンターの向こうから、私達に注意をしようか迷ってるのが見える。私は黙ることにする。そんな私の様子を見て、越川も我に返って無言で私を睨む。
しばらく同じ状態が続き、同じ体勢で座ってるのも疲れてきたところで、越川が「もういいだろ」と言って私を見た。もう顔色も元通りになり、細い指を机の上で重ね、表情も晴れやかだ。私は目を下に逸らし、同意の合図を出した。
「本当に、加藤が何か言ってたの?」
先程よりも、というより普段よりもずっとソフトに、越川は聞いてくる。越川はずっと同じ質問を繰り返す。私は正直に答えてやる事にする。
「いや。本当は何も聞いていない。なんとなくそうじゃないかと思っただけ。昨日、加藤に振られたから」
越川は大きく目を見開いて、私の顔を見た。相変わらずの長いまつ毛。前かがみだった背筋が伸び、顎を引いたので、後ずさりしたように見えた。
「どういう事だよそれ? やらせてもらえなかったって事?」
「いや、やるとかじゃなくて、本当に好きだった、て事。あ、でも、やらせても、もらえなかったから同じか」
越川は顔をしかめる。私も無理もないなと思う。こうやって言葉にして、初めて自分の行動が支離滅裂だった事がわかる。好きなら単純に好きと言えば良かったのだ。
「安藤、出ようぜ」
突然越川は立ち上がり、バッグを肩にかけた。私も同感だった。図書館の空気は生ぬるいし、人も結構いるので、こんな話をするのに相応しくない。
始業式の昼過ぎという時間が絶妙なのか、帰り道は誰一人いなかった。空は快晴で一瞬暖かいと勘違いしそうになるが、すぐに吹く風がコートの上から体温を奪った。その風が落ち葉を撒き散らし、私の靴の下に滑り込み、くしゃりと音を立てて粉々になる。
このまま歩けば五分もかからず駅に着くが、駅前通りの曲がり角を反対に折れ、帰り道から外れる。コンビニの前を過ぎ、市民ホールの所を曲がって、ずんずん歩いて行く。去年の夏に猿渡と内藤と祭りに行き、知らない奴らが騒いでいた場所だ。私たちは無言で歩く。越川の歩調は意外と早く、自然と私は後ろからついて行くポジションとなる。
街中を抜け、土手沿いを歩き、坂を上がってしばらく行くと団地に入った。三十分近く歩いたのか。寒さに完全に体が慣れ、うっすら汗までかいてしまっている。途中に公園があり、越川はそこのベンチでようやく腰を下ろした。
公園は、建物に囲まれているせいで日当たりが悪く、ベンチに座ると冷んやりした。私は周りを見渡し、隅にあるブランコが日向にある事を発見すると、越川にあそこに座ろうと提案した。越川は黙ってそれに従う。
公園内には誰もいなかった。時間帯のせいなのか季節的なものなのか、公園だけでなく道も建物も人の気配がなく、ひっそりとしていた。いくつも並んだ団地のベランダに目をやると、布団が干されている。越川もしばらくはこの光景を珍しそうに眺めていた。ブランコの鎖を握りしめ、足元では砂を靴でずっている。履いている革靴は、踵の部分が踏まれてぺっちゃんこだ。やがて風景にも見飽きたのか、越川が口を開く。
「やらせてもらえなかったんだ? 加藤に」
「うん」
「やめて、て言われたの?」
「いや、思い切り泣かれた」
「そうか」
越川の名前を出した途端に泣き出したことは、黙っていた。
「本当は別にしたかったわけじゃないんだ。そりゃできれば嬉しいけど。なんていうか、普通に付き合う、みたいな」
「わかるよ」
越川の言い方は、優しそうであり、疲れ切ってるようでもあった。私の方ではもう言うべき事は言ってしまった。越川は何も聞いてこない。ひと呼吸置いて、今度は越川が話を始める。
「ていうか、加藤がサセ子になったのは俺のせいなんだ」
「そうか」
「驚かないの?」
「驚くかよ。加藤を見てたらわかるよ。特別な関係だったって事くらい」
「加藤とは確かに付き合ってたよ。中学の時に。俺が好きになって、無理やり生徒会に誘って仲良くなって、それで付き合い出したんだ。でも色々あって、結局別れた。どちらからというわけでもなく」
「色々、てなんだよ?」
「色々は、まあ色々だよ」
越川は面倒臭そうに頭をかいて、首をすくめた。もうこれ以上聞くなということなのだろう。
お互い話す事はなかったが、どちらも帰るそぶりを見せなかった。越川は下を向き、両足の爪先で地面に二等辺三角形を描いている。右足が自分で左足が加藤で、もしかしたら加藤との楽しかった日々を回想してるのかもしれない。
越川の足の動きを眺めながら、私はもし加藤がサセ子でなかったら、という妄想にふける。サセ子でない加藤は、ただの地味だけどよく見ると可愛い女の子だ。男たちに、ヤリマンとか陰口を叩かれるわけでもなく、本人も晴れ晴れとした気持ちで高校生活を送っている。そんな加藤に私は、何の引け目もなく健全に惚れ、他の男と話しているのに嫉妬したり、越川に相談して、あれこれ仲良くなる作戦を練るのだ。そして、自分の小説を読んでもらって感想を聞かせてもらう。お礼に、加藤の考えた話を小説にしてあげたりする。「原作、加藤だね」なんて言って喜ばせてあげたりする。そこに越川が割り込んできて、相変わらず上から目線であれこれケチをつける。このヒロインちっとも可愛くねーじゃん、なんで主人公が好きになるのかわかんねーし、みたいな。遠回しに加藤の容姿を非難しているみたいで、加藤は笑顔だけど、心の奥底で傷ついている。でもそれは加藤ではなく、私の文章力の問題なのだ。よし、どうにか越川を見返してやろうぜ、と加藤を励まし、もっと仲良くなる。
「安藤」
いつのまにか越川が立ち上がっている。つられて私も立ち上がる。さっきまで鎖を握り続けた手が臭くなっている。
「いろいろ悪かったな。俺もちゃんとしなくちゃ。ちゃんと加藤と話すよ。とにかく、悪いのは俺なんだ。ごめん」
「俺じゃなくて、ちゃんと加藤に謝れよ」
「そうだな、そうする」
越川が何を言っているのか、私にはわからなかったが、越川が加藤を傷つけたのは明らかだった。見ると思いつめた顔をしている。私は、何か元気づけるようなことを言いたかったが、特に思いつかなかった。体はすっかり冷え切っている。日も傾きはじめ、このままいたら風邪を引いてしまう。
「行こうぜ」
私が越川に声をかける。
「そうだな。ていうか、ここはどこなんだ?」
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