22


「私としたい?」

 アユカが聞いてくる。顔色が青白い。目がくぼんで、やつれている。最近あまり眠れない、と話していた。

「いいの?」

 ワタルが聞き返す。アユカは頷き、ゆっくりと制服を脱ぐ。ベッドの上に、ブレザーとベスト、ワイシャツを順番に重ねる。最後にゆっくりとした動作で下着を外し、白い乳房が顕になる。痩せた上半身だ。

「私、ワタルくんの事が好きだから。ワタルくんが喜ぶことをしてあげたい」

 ワタルは迷う。どうする事が正解なのかわからない。アユカを抱いても抱かなくても、傷つけるのが目に見えている。

「そんな風に無理をしなくていいと思う。そりゃしたくない、て言えば嘘になるよ。だけど俺だってアユカのことが好きだ。だから我慢する。アユカが本当に受け入れてもいい、て思う時まで待つよ」

 ワタルはアユカの事を気遣い、そう言った。

「意味わかんない」

 右手の薬指で頭を掻きながら、不快そうにアユカが言う。

「わたしがしたいから、しようって言ってるんだよ? 本当に受け入れたいのは今、だよ? どうしてわかってくれないの? わたし、ワタルくんの事好きだもん。ずっと一緒にいたい。そうしたら、こういうことしなきゃダメでしょ? ワタル君したくないの? 私の事嫌いになった?」

 ワタルは何も答えない。アユカの部屋は暖房があまり効かない。コートを脱ぐだけで寒いと感じる。アユカを抱き寄せると、予想通り体は冷え切っている。裸のアユカに触れるのは初めてだ。思っていたよりも硬い感触だ。それが体つきのせいなのか、アユカが体をこわばらせているせいなのかは、わからない。アユカは身をよじり、ワタルの腕をほどくと、ベッドの端まで行き、背中をふるわせ始めた。



「本当」という言葉とともに、加藤の表情に余裕が生まれる。ゆったりとした、子供に語りかけるような口調で加藤が聞いてくる。

「安藤君も、したいの?」

顔を覗き込んでくる。その仕草で私は、自分が顔を下げていた事に気づいた。加藤から目を逸らそうとしている。

「うん」

と私は答えた。そう言うしかない。

「じゃあ、しよっか」

加藤はイスを回転させ、再び私に背を向けた。右手を伸ばし、机の上から二番目の引き出しを開け、中から長細い箱を取り出した。コンドームだ。封は切られていて、開け口の部分がめくれている。箱を開けると中から包みの一つを切り離し、私に渡してきた。動作に一切の無駄がない。一瞬加藤の手に触れた。冷たい手だったが、コンドームの包みよりは温かく、柔らかみがあった。


もはや、こんな風に手が触れたくらいで、いちいち感情を動かされてはいけない。加藤が何も感じてはいないことは、今の一連の動きでわかる。手が触れたどうこうを、頭の中で考えている事を知られたら、笑われるだろう。私は生まれて初めてセックスをするし、おそらく加藤もその事をわかっている。それでも私はどこかで自分が加藤をリードしなければならないと思っている。


加藤が私の隣にやってくる。ほとんど隙間なく私の左側に座り、体をつけてくる。ベッドがきしむ。古いものなのだろう。私はベッドのスプリングの錆具合について、思いを馳せる。


こうやって隣同士に座るのは、夏の運動場のベンチ以来だ。あの時は制汗スプレーの匂いがした。今はしない。冬だから付けないのだろう。代わりに、微かな汗の匂いがした。でもこれはもしかしたら、私のものかもしれない。

 

加藤がパーカーを脱ぎ始める。私とぴったり体をつけているせいか、腕を抜くのに手間取っている。私は脱ぎやすいように、体をずらした。こっちから脱がさなくてはいけなかったのだろうか。かといって、今更手伝うのは間抜けだ。加藤は脱ぎ終わると軽くたたみ、机の上に放り投げた。フードの紐が机から垂れ下がり、結び目が小さく揺れている。その下に私の小説がある。どうしていいのかわからず、こっちも一枚脱いだ。


加藤も私もTシャツ姿になった。加藤が紫色で、私が白だった。加藤のは無地で首周りが少しくたびれている。その下は素肌だろう。体のラインが際立ち、華奢な体だという事がわかる。体格は関係ないだろうが、何人もの男を受け入れてきたようには、どうしても見えない。再び加藤は私に体をつけようとする。私は同じタイミングで右にずれて、わずかな隙間を作り、加藤に向けて斜めに座りなおした。加藤が一瞬私の顔を見る。私は目を合わさずに、加藤の左手を取る。向こう側の手を取られた加藤はこちらに体を向けざるを得ない。私は加藤の左手を両手ではさみ、円を描くように、ゆっくりと撫でた。何周かすると、今度は加藤の指を一本ずつ根元からなぞっていく。人差し指、中指ときたところで加藤は吐息を漏らし、私の胸に頭をくっつけてきた。薬指、小指となぞり切って二往復したところで、意を決して、左の乳房に手を伸ばす。


手が震えてくるが、気づかれないように、力を入れる。乳房の下側から、手で包み込むように触れる。柔らかさよりも、下着の質感が伝わってくる。加藤は特に反応をしないが、同じ動作を繰り返していると、やがて私の左腕にしがみついてきた。結構強い力だ。加藤の表情を確認したいが、顔を私の胸にうずめたままだ。


左右の胸を触ったあとに、加藤を抱き寄せる。背中や首筋をさすってから、髪をかき上げ、耳にも触れる。以前触りあったときよりもずっと近い位置にあって、産毛が見える。私はそこに口をつける。加藤が短い声を漏らす。このまま口づけをしたいと思ったところで、加藤が私の腕を思い切り引っ張り、二人ともベッドに倒れ込む。うつぶせになった加藤がこちらを見る。髪が乱れ、顔の半分が隠れている。その奥の目が潤んでいる。手を伸ばして、指先で私の唇をタッチしてくる。

「安藤くん」

かすれた声で、加藤がつぶやく。

「ごめん、痛かった?」

「ううん、すごく優しいよ」

「ありがとう」

「あのさ、電気消してくれる? 紐が下がってるから、それを、引っ張って」

加藤から一度離れ、立ち上がる。段取りを間違ったみたいで、恥ずかしい気がした。カーテンは、隙間なく閉まっている。やはり加藤はこうなることがわかっていたのだ。


電灯の紐に手を伸ばしたところで、誰かの視線に気付く。誰かがこちらを見ている。カーテンは閉まっている。私は入り口の方を見て、視線の正体を探る。


「......越川?」

越川だった。入り口の脇に、越川が立っている。


私の頭は一気に混乱する。いつからそこにいたのか。小説を読んでもらっている間に忍び込んだのだろうか。少なくとも、私が加藤の体を触り始めたところは見ているだろう。何故黙って、そんなところに立っているのか。一瞬で様々な考えが頭を駆け抜ける。


だが、よく見るとそれは越川ではなかった。入り口の姿見が、私を写している。鏡の中の自分を、越川と見間違えただけだった。緊張しすぎて、私の目もおかしくなったのかもしれない。鏡の中の私が血相を変えて立っていて、滑稽にすら見える。見れば見るほど、越川と私は違う。

「なんで......?」

ベッドに視線を戻すと、加藤がいつのまにか体を起こし、こちらを見ている。胸の前に手を当て、私と同じように血相を変えている。明らかに越川という言葉に反応したのだ。

「ううん、なんでもない」

「今、越川、て」

「違うよ」

加藤がこちらを睨む。

「嘘」

「嘘じゃない。そんなこと言ってない」

「最低」

「え?」

突然の言葉に、私は冷水をかけられたような気持ちになる。反射的に「ごめん」「なんで?」と口にするが、加藤は完全に無視している。私は越川の名前を出しただけだ。それなのに、どうして加藤の様子が急変したのか、意味がわからない。


私は再びベッドに腰掛け、加藤の手を取ろうとするが、加藤はそれをはねのける。

「わかってたんでしょ?」

声の様子で、加藤が泣いていることがわかった。顔を見ると大粒の涙が、次々に頬を伝っている。

「最初から、わかってたんでしょ? そうだよ。私は、越川くんが好きなの。中学のときから、ずっと好き。あんなことされたのに、それでも忘れられないの。馬鹿みたいでしょ?」

馬鹿みたいでしょ、と言われても私は越川が、加藤に何をしたのかは知らない。越川からすべて聞かされたと思い込んでいるようだ。加藤は明らかに普通でなくなっている。

「私が安藤くんの小説読みたいって言ったのも、そうしたら、越川くんが私のこと見てくれると思ったからだよ。わたしって最低でしょ? わたし、安藤くんのことを利用したの。最悪。もうやだ。それなのに私のことなんか無視して。オマケに違う人とつき合い始めて。バカみたい。全部最悪。誰もわたしの気持ちをわかってくれない。もうやだ。死にたい」

最後は叫ぶように言うと、加藤はベッドにつっぷした。「やだ」「死にたい」という言葉を繰り返しながら、大声でわんわん泣いている。私は「死」という言葉に、反射的に何かをしなければいけない気になるが、どうすることもできない。背中をさすって落ち着かせてやりたいが、また手をはねのけられそうで怖い。私の気も動転している。加藤の話によると、加藤は初めから私に興味など微塵もなく、越川の気を引くために利用したとのことだ。怒ってもいいのかもしれない。それでも加藤がどうにかなってしまいそうで心配だ。同時に気まずさもある。この状態で家族が帰ってきたら、どうなってしまうのだろう。泣き声は部屋の外まで響いているだろう。私はこの状態をなんて説明すればいいのだろう。私は意外と冷静だった。


やがて加藤の声は小さくなり、泣き方もすすり泣きに変わっていった。私はその間ずっと立ち尽くし、加藤の大きく上下する背中を眺めていた。太ももの筋肉がこわばり、痛くなっていた。

「安藤くん、ごめんね。もう帰って」

加藤が言ってきた。鼻声だったが、声に冷静さが戻っている。顔はこちらにを向けなかったので、声は地の底から発せられたようだった。何か気遣う言葉をかけてあげたかったが、何も思いつかなかった。私は自分のトレーナーを頭から被ると、無言のまま部屋を後にした。一縷の望みを持って、ドアを閉める直前に加藤を見やったが、加藤の様子に変化はなかった。負傷した兵士のように、うつぶせのまま、ぐったりと横になったままだった。


家に帰るまでにかなりの時間を要した。コートを羽織る元気もなかったのでカゴに突っ込み、のろのろと自転車を走らせた。寒さはまったく感じなかった。途中でコンビニに寄って何か買おうと思ったが、商品を目にしても、何を買っていいのかわからず、そのまま店を出た。


「加藤がサセコって本当?」なんて質問はどう考えても愚かだった。せめて「越川とつき合ってたの?」と聞ければ良かった。そもそも、私は加藤に自分の気持ちを伝えようとしていたのに、興味本位で変なことを口走ってしまった。しかし、どちらにせよ結末は同じだ。加藤は私に興味はなく、越川が好きだった。過去に何があったかは知らないが、私だって加藤が越川を意識していることくらいわかっていた。


家についてしばらくしてから、卒制を加藤の家に置いてきた事に気付いた。一瞬加藤に電話をして、明日学校に持ってきてもらおうか頼もうと思った。さっきの出来事に触れなければ、また元通りになるような気がした。しかし、電話で話しても気まずいだけだけなので、思いとどまった。


卒制は諦める事にした。諏訪に聞かれたら「どうでもよくなった」と答えればいい。心底どうでも良かった。そもそも、あの小説は加藤の為に書いた。加藤に一番に読ませるために書き、そして、その願いは叶った。最初の読者は加藤となり、あとは何にもならなかった。役目を終えたのだから、ゴミとして捨てられてしまっても、何の問題もない。


代わりに私の手に残ったのは、コンドームだった。加藤が引き出しから取り出し、手渡してくれた物だった。知らないうちにポケットに突っ込んでいた。これを卒制として提出しようかと一瞬思ったが、さすがの諏訪も怒るだろう。コンドームは引き出しにしまっておくことにした。同じ場所には加藤のPHSの番号をメモした紙がしまってあった。

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