21

する事がなくなった。加藤は机に向かって、ひたすら私の小説を読んでいる。ページをめくる音がたまに響く。製本が甘いので、加藤がめくるのに苦戦している。汚さないように気を遣っているから、なおさら時間がかかる。半分近くにきたところで、部屋の中がようやく温まってきた。室内を見回すと、机の脇には本棚があって、小説や漫画、CDが一段ずつ詰まっている。本棚の隣には年代物のオーディオがある。私の物よりずっと大きい。壁にはポスターの類はなく、カレンダーと時計がかけられているだけだ。予定は何も書き込まれていない。ドアの隣に姿見があって、私の角度から見ると、天井を写している。私の後ろ側に窓があって、少し先に隣家の屋根が見える。来た時よりも薄暗くなっている。時計を見る。四時半だ。再び加藤の背中に目をやる。大体三分の二を読み終わったところだ。どの辺りのシーンなのか、手に取るようにわかる。加藤はどんな風に思ってるのか。そういえば越川に初めて読ませた時も、同じだった。どんな感想を言うのか予想して、それに対する返事を考えていた。


今までと決定的に違うのは、この後加藤に自分の気持ちを伝えるという事だ。そう思った途端、心臓の鼓動が早くなり、みぞおちのが痛くなる。気持ちを落ち着かせようと、コップに手を取るが、中身はほとんど残っていない。無理に飲もうとしても、コップの底に溜まっていた分が、わずかに喉の上に垂れるだけだ。加藤が用意してくれたのはコップ一杯の烏龍茶だけで、しかも真冬に関わらず冷たいものだった。不平を言うわけではないが、飲み物は温かいほうがいいし、お菓子があってもいい気がする。


もし、加藤の親が家にいたら、こんな風にならなかったのかもしれない。男の子が遊びに来てる、と言ったら親の方が気を回して、茶菓子を用意してくれそうだ。そいえばワープロは加藤の父親のものだと言っていた。いるなら礼を述べなければいけないのだろうか。考え出すと煩わしいので、やはり不在のときに招いてくれてラッキーだった。


ラッキー?


ふとこの言葉がひっかかった。本当に幸運なのか。加藤は、あらかじめ親が出かける事は知っている。今日のこの時間を指定したのは加藤だ。加藤にとっては、幸運でも偶然でもない。最初から仕組んだ事だ。


そもそも女子が一人のときに、男を家に上げることに、抵抗はないのだろうか。私が強引に性的な事を求めてきても、助けを呼ぶ相手はいない。そう考えると、むしろ加藤はそういう展開を望んでいるのかもしれない。サセ子というのは、やはり本当なのかもしれない。親がいないタイミングで男を家に招き入れるというのも、よくやる手口なのだ。


そうなると私の愛の告白も、加藤からしたらシラケるだけだろう。「好きだ」と言ったところで、「で?」と返されて終わりだ。加藤にとって「好き=セックスする」だから、気持ちがどうとか言われても、戸惑うだけだ。もし、このシチュエーションで何も起きなかったら、加藤はがっかりし、私を意気地のない男と見下すだろう。


それでもまだわからない。私を家に上げたのにも深い理由はなく、家族が不在なのも偶然だ。私の小説を読む直前、加藤は「『耳をすませば』みたいだ」とはしゃいでいた。あの行動に、嘘があるとは思えない。私は加藤と同じクラスになってからの出来事を思い返す。隣同士の席で、卒制の見せる、見せないで騒いだ事を思い出す。夏のグラウンドで、一番に読みたいと言った事とか、帰り道に声をかけた事とか、耳を触った事。それらの行為は、セックスに至るまでの途中経過でもステップでもない。ひとつひとつがそれだけで完結している。私は加藤が好きだった。関わり合った事、全てが愛おしい。


加藤は残すところあと二ページのところまできている。ページの最初の字句が見えたので、はっきりわかった。物語は、クライマックスだ。


「読み終わった」

やがて加藤が振り返って宣言する。顔色が少し悪い。全身を伸ばして、大きく息をつく。

「なんか色々と考えさせられる話だね」

しばらくの時間、作品について話をした。まさかこんな事になっちゃうなんて、とかこの人すごく嫌な人だね、とか。加藤は全体的に好意的なコメントをくれた。私も良く書けたと思う箇所や、苦戦した箇所を披露し、「そんなシーンあったっけ?」と言う加藤に、ページを開いて指し示したりした。こういうやり取りは楽しいはずだったが、私は気が急いていて、まったく楽しめなかった。

「でもさ、この主人公は、安藤君に似ているね。言葉づかいとか、そっくり」

加藤にそう言われても「そうかなあ」と曖昧な返事しかできなかった。加藤は少し気を遣ったような言い方をした。どうしてだろう。私が、この主人公と似ていると、何か不都合があるのだろうか?

「大丈夫?」

不意に加藤が聞いてくる。私の顔を下から覗き込み、私はまた耳を触られるんじゃないかと、怯んだ。気がづくと部屋の中が異常なくらい静かになっている。別に音楽がかかっていたわけでもないし、入った時から賑やかでもなかったのに、何故かそう感じてしまった。加藤の話に返事はできるものの、自分から話を振る事はできない。会話が途切れがちになり、加藤はその事を心配したのだ。


私は当然のように「大丈夫」と笑って答える。加藤に自分の気持ちを悟られたくない。何か適当な話を振って、機を見て帰ろうと思った。


「そういえば」

と私が言いかけたタイミングで、加藤は椅子の向きを変え、私の正面に向ってまっすぐ座り直した。サビの浮いた椅子のシャフトが、きしんだ音を立て、私の言葉をかき消した。加藤の耳には入っていない。言い直そうとしたところで、加藤の方が「そういえば」と切り込んできた。

「そういえばさ、何か話があるって言ってたよね」

加藤は膝の上に手を置き、話を聞く体勢を作っていた。私の目をまっすぐ見て、背筋を伸ばしている。そんな風にされたら、もはや逃れられない。話があると言ったのは私の方だ。何か話をしなければならない。私は、この雰囲気に相応しい話を考えた。「宿題もう終わった?」とか聞きたいが、三年には宿題は出されていない。そもそも相応しいとはなんだろうか。私は何に気を遣っているのだろう。自分が言いたい事を言えば、それで済む話だ。その後のことは、そのときに考えればいい。自分の中で腑に落ちた。何でも深く考えこむ私は愚かだ。

「聞きたい事があるんだけど、加藤が誰とでもするサセ子だって本当?」

私が加藤に一番聞きたかった事はこれだった。二年のときから、ずっと気になっていたことだ。野球部の細貝や、柔道部の誰それと、一緒に寝たという噂は本当だろうか。これを確かめなければ、とにかく事は先に進まない。これは正しい質問だ。


加藤の表情が静止画像のように固まり、何秒か過ぎた。よくある実際はわずかな時間なのに、永遠のように感じるというやつだった。私は辛抱強く加藤の言葉を待った。我慢しきれずに言葉をつげば、話がおかしな方向に行ってしまう。加藤は小さく息をついた。首をかしげ、右手の薬指で頭をかく。やがてそらしていた目を、再び私に向ける。口を開く。その後の加藤の言葉に、私は自分の発言を、決定的に後悔する。


「うん、本当」

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