20

「こんなに電話して大丈夫?」

あの耳を触りあった日以来、週に二度くらい、加藤のPHSに電話をかけている。加藤は「どうして電話くれないの?」と言ってきたくせに、いざかけるの大丈夫なのかと心配してくる。

「だって、小説もあるし、受験勉強もしなきゃでしょ? 話ができるのは楽しいけれど」

「大丈夫だよ。なんとなくこうやって話すると気分転換にもなるし」

そう強がったが、実際はあまり良い状況ではなかった。私としても加藤と話ができるのは心底楽しかったが、おかげで受験勉強には手がつけられないし、小説の方もおざなりになってしまっている。できたら冬休みの前に完成させて提出してしまいたかったが、この調子だとそれも難しくなってきている。私は卒制の完成に、イベントをからめることにした。

「卒制が完成したらさ、聞いてほしいことがあるんだけど」

『聞いてほしいこと』とは、私の加藤に対する気持ちだった。こうすれば完成して読んでもらわない限り、加藤に伝えるチャンスはこない。加藤は短大志望で、高校を卒業したらもう会えなくなるのだ。

「今じゃなくていいの?」

「いいの。そんな大した話じゃないし」

「えー。気になるんですけど」

私からすると、今のやり取りでもう勘づかれてしまったんじゃないかと思う。できたらその方がいいのである。


自分の決心がつくと、その日が待ち遠しくなってくる。年内でなんとか完成させようと思っているが、まだ一ヶ月近くある。一ヶ月もあったら、どこか別の男と仲良くなって、そのまま付き合うという事もあり得る。


蛭田は越川と付き合い始めて、見違える程明るくなった。休み時間にぼんやりしてると、蛭田の弾んだ声が耳に入ってくる。

「じゃあイルミネーションとか?」

越川に何か提案している。クリスマスの話らしい。蛭田の赤い髪と白いカーディガンも、クリスマス仕様に見えてくる。カーディガンの裾の部分はほころんでいるが、まるで印象が違う。

「安藤、ぼうっとしてどうしたの?」

蛭田も越川にならって私を呼び捨てにする。シャーペンを嫌々受け取った時とは別人だ。打ち解けてくると、悪い人間ではなかった。蛭田はビジュアル系バンドが好きで、髪の色もその影響だと教えてくれた。


加藤は夜に電話をするようになると、私の席には滅多に近づかなくなった。そのため越川と蛭田は休み時間の度に私に話しかけるようになった。この二人は今は誰彼でも話しかけたくて仕方がないのだろう。

「安藤も早く彼女作れよ。ダブルデートしよぜ」

越川が調子に乗って言ってくる。冗談じゃない。加藤の顔が思い浮かぶが、気疲ればがりして全く楽しめなさそうだ。

「遠慮しておくよ。クリスマスでもなんでも、自分らで勝手にやってくれよ」


あと一週間でクリスマスだったが、加藤と話をしていても、まったく話題に出なかった。二日前に電話したときも「あと一週間でクリスマスだね」なんて一言もなかった。加藤は厳格な仏教徒なのかもしれない。クリスマスに触れてくれなかったお陰で、私の卒業制作は最後の追い込みに入ることができ、学校から帰ると、食事と風呂以外はずっとワープロに向かうようになった。ワープロで文字を打ち込む作業は思ったより手間取り、何度も小指がつりそうになった。夜中の一時か二時まで作業を続けると、こめかみの辺りが痛んでくる。喉も痛い。休みに入ると昼夜が逆転した。文字の打ち込みが終わると、今度は印刷の作業に入るが、思うようにいかない。モニターの裏に付いている紙の差込口は、少しでも紙が曲がってると、行がまっすぐ印刷されない。紙の真ん中にきれいに印刷するためには、紙を差し込む度に、左右の余白が均等になるように、定規で測る必要があった。ようやくまともに字が並ぶようになり、作業がスムーズに行き出すと、今度はインクリボンがなくなる。北風に吹かれながらホームセンターまで自転車を走らせる。


年が明ける頃に、ようやく全てのページが刷り終わるが、読み返すと誤字や脱字が結構あった。打ち直すと次のページの行もずれ、そこからまた刷り直さねばならなかった。どうにかしてページ番号を振りたかったが、やり方がわからないので、手書きで入れた。明らかに字が汚い。こういう作業を、加藤にお願いすれば良かったのかもしれない。また加藤だ。冬休みに入ってから、加藤に電話するのはやめている。無事にお正月を迎えただろうか。初詣に行って、一緒に行った相手と寝ていないだろうか。やめよう。加藤は私の小説を読みたいと言った。今はそれだけを考えるように努める。


五十枚程の原稿に、画用紙に和紙でコーティングした表紙を付け、つづり紐で綴じた。私はそれを机の上に立て、窓際まで行って遠目に眺めた。和紙は茶色の地に花の模様が入っている。タイトルは入れなかったが、それっぽく仕上がった。おそらくうちの学校で卒制にここまで気合を入れる馬鹿なんていないから、賞も余裕で取れるだろう。


夜中の三時を過ぎていたので、とりあえず寝る事にした。ベッドにもぐり込むと自分の体が冷え切っていることに気づき、なかなか寝付くことができなかった。悪い気分ではない。初めて小説を書いた時も、こんなだった。随分昔の事のように感じる。あのときは越川に読んでもらった。それが加藤に代わった。加藤はどんな感想を抱くだろう。越川に読んでもらうときは楽しみだったのに、今は不安の方が大きい。それは小説ではなく、告白した後の反応に対してだった。


翌日に加藤に電話した。抱え込むように子機を持って部屋にこもり、何度も確かめながら、番号をプッシュする。しばらく無音状態が続き、コール音が鳴った。


加藤はなかなか出ない。私は立ち上がって伸びをした。そうしないと血液がうまく流れない気がした。窓の外を見ると、晴れていたが風が強く、道の向こうの竹藪が大きく揺れていた。ひょっとしたら違う人間にかけているのかもしれない。なぜかこのまま加藤に繋がってほしくない気がした。

「はい」

と言って加藤が出た。私は新年の挨拶を簡単に済ませ、すぐに卒制が完成した事を報告した。加藤の第一声は「おめでとう」だった。そして「お疲れ様」と労ってくれた。私は照れ臭かったので、まずはワープロの話をした。

「長い間借りちゃってごめん。すぐ返さなきゃだね」

「じゃあ明日返しにきてよ。そのついでに読ませてくれる? 午後でいい?」

話がとんとん拍子で進んでしまった。前から思っていたが、加藤は意外とせっかちだ。本当はもっと丁寧に礼を述べ、加藤がいなきゃここまでできなかったみたいな事を言いたかったが、完全にタイミングを逸した。加藤はきっとそういう長ったらしい挨拶も嫌いなのだろう。


翌日の午後三時に、加藤は私の家にきた。借りた時と逆の流れでワープロを運ぶ。夏休み直前に二人で運んだ時の事を、思い出す。加藤のTシャツ姿が懐かしい。


話をするのは久しぶりだったので、最初はぎこちなかった。加藤は茶色いコートをまとい、白いマフラーを巻いていた。いつもと違うことを指摘すると、福袋で買ったことを教えてくれた。


翌日から新学期が始まるが、一月末に期末テストがあって、すぐ春休みになる。三年は二月からはほとんど学校へは行かない。そう考えると、こうして歩くのもあと数回だ。意識して歩く速度を緩める。歩いているのは私たち以外にいなかった。こんなに寒いのだから当たり前だ。玄関にしめ飾りをしている家が何軒かあった。空は曇っていて、たまに冷たくて強い風が当たって、体全体が強張る。手袋をしてくるのを忘れた。トレーナーの袖を一杯に伸ばして、手の甲を覆う。でももう手遅れだ。冷え切った手は、すぐには温まらない。血液が届かなくなって、他人の手のようだ。手だけではない。足先も、頭も、今加藤と話している年末のテレビの話も、みんな現実感がなくて、私全体が心臓の方に収縮してしまったように感じる。その中心で、心音だけがクリアに響いている。私は緊張しているのだ。加藤は白い毛糸の手袋をしている。普段なら冗談で、手が冷たいから温めて、と言えるのに、今は言えない。嘘だ。そんな事、言った事もない。


ワープロを玄関に置き、加藤の様子を伺う。用事はこれで終わりだ。

「じゃあこれ」

と言って加藤に原稿を渡し、体を反転させ帰る体勢に入る。すぐに加藤は引き止めてくる。

「上がっていってよ。今日は親もいないし」

「せっかく書き上げたものを、借りちゃうなんてできないよ。すぐ読んじゃうから待ってて」

加藤はそう言って私の前にスリッパを並べた。


階段を昇ってすぐ右側が加藤の部屋だった。奥に机とベッド、中央に丸いテーブルが置いてある。壁際にはテレビと本棚があった。六畳くらいの広さで、片付いてはいるが、手狭だった。加藤は部屋に入るとコートを脱ぎ、エアコンのスイッチを入れる。コートの下にはグレーのパーカーを着ていた。私も倣ってコートを脱ぐが、部屋は冷え切っている。

「見ての通りごちゃごちゃした部屋なんだけど」

私が入り口に立ってるとそう言い「そこにでも座って」とベッドを指さした。確かにそこくらいしか座る所がない。私が腰を下ろすと、加藤は部屋を出ていき、お盆にお茶を載せてやってきた。冷たいお茶だった。


加藤は机に向かい、封筒から私の作品を取り出した。机はベッドの正面に置いてあるので、私は加藤の背中越しに、その様子を覗く。完成した卒業制作が、初めて他人の手に触れている。人の手に収まると、やけに小さく見える。

「これが完成品なんだ、すごいね」

加藤は重さを確かめるようにしながらしばらく表紙を眺め、振り返って目を輝かせた。ちょっと大げさ過ぎやしないかと私は思う。読み終わったらどんな事を言われるのだろうか。思わず手が震える。怖い。

「じゃあ、今から読みます。ちょっと待っててね」

加藤は慎重に表紙をめくると、背筋を伸ばした。次の瞬間いきなり振り返って笑い出す。

「なんだか『耳をすませば』みたいじゃない?」

加藤の声が弾んでいる。

「確かに」

「あの映画いいよね」

「うん」

「あの映画の監督ってもう死んじゃったんだっけ?」

「そうだっけ?」

「確かそう。あの映画は宮崎駿が監督じゃないから」

「まるで宮崎駿以外の監督は、みんな死んだみたいな言い方だな」

「そうじゃないって」

「ていうか早く読めよ。こっちは心臓ばくばくなんだから」

あ、ごめん、と言って加藤は再び前を向いた。なんとなく動きがコミカルなのは、私が冗談で心臓ばくばくと言ったと思ってるからだろう。私の心臓が通常よりも、早い動きをしているのは嘘ではない。ただ、それが加藤が自分の小説を読んでいる事に対してなのか、それともその後のことに対してなのかは、よくわからない。

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