19
アユカに言われた通り、ワタルは月、水、金曜日は学校帰りにアユカの家へ寄った。アユカはいつも冷たいお茶と音楽の話でワタルをもてなした。こうして話をしている時は、笑顔が絶えない。しかし、どうしても話の合間にふと見せる表情に、ある種の影を感じないわけにはいかない。あるいは、それはただの思い過ごしなのかもしれない。もし、アユカを襲ったのがワタルでなかったら、アユカがこうして夕暮れを恐れる本当の理由について、見当もつかないだろう。夕方が怖い、と言うアユカを「子どもだな」とからかってしまうかもしれない。事情を知っている自分だからこそ、アユカの一番の力になれる。
その夜家に帰ると、ワタルは数学のノートを忘れてきた事に気づいた。最近はアユカの家へ訪れると、まずは宿題を片付ける事になっていた。その日は数学の宿題が多めに出されており、黙々と数式を解く事で時間が過ぎていった。アユカは「ワタル君が数学得意で本当に助かった」と感謝してきた。ワタルは自分は英語が苦手で、教科書の訳で大分世話になってるからおあいこだよ、と素っ気なく答えたが、「人が感謝してるんだから素直に喜べ」と膨れ面をした。そんな風に怒られるのが、なぜか心地よくて、ワタルはもっと素っ気なく「じゃあ、ありがと」とぶっきら棒に言って、ますますアユカを怒らせた。笑いながらも半ばムキになったアユカは、最後はワタルの頭を軽く叩いた。全く痛くない。
アユカがワタルのノートの存在に気付けば、間違いなく明日学校に持ってきてくれるだろうが、念のため電話で伝えておこうと思った。幸いまだ七時を回ったところで、電話をかけるのにそれ程失礼な時間ではない。
親が出る可能性もあったが、受話器を取ったのはアユカだった。コール音は一回しか鳴っていない。ワタルはアユカの勉強机の隅に、コードレスの子機が置いてある事を思い出した。もしかしたら、アユカはワタルのノートの存在に気付き、こうして電話してくるのを予想して待っていたのかもしれない。なんだか微笑ましい事のように思える。ワタルは開口一番に「待った?」と笑い声で聞いてみた。
実際に待っていたかどうかはともかく、ワタルは一時間程前までの楽しいやり取りが再開されるものと思っていた。だが、予想に反しワタルの第一声は受話器に吸い込まれ、沈黙が何秒か続いた。そして「どちら様ですか?」と言いづらそうに尋ねられた。一瞬母親にかけてしまったのかと思ったが、アユカの声に間違いない。念のため「アユカさんですよね?」と確認してみた。「はい」という返事がきた。益々警戒を強めている事が感じられる。
自分は誰と話しているのかわからないのに、相手は名前を知っている。さぞかしアユカは不気味に感じているだろう。または気まずいのかもしれない。ワタルはからかってやろうと思い「僕の事が誰だかわからない?」とわざと声色を変えて聞いてみた。すみません、わからないです。ノイズに紛れ、アユカの声は消え入りそうだ。ワタルが一言正体を明かせば、普段の二人に戻る。その状況がおかしくて、ワタルはもう少しアユカをからかってやろうと思う。だが、次に出てきた言葉はワタルにとっても予想外のものだった。
「俺は先月の二十九日の夕暮れに、君をレイプした男だよ」
アユカに自分だとわからせるための、ヒントを出すつもりだった。最初はできるだけ難しくして、そこから徐々にヒントを増やし、アユカの緊張を解いていこうと思っていた。だが、丁度いい具合のものが思いつかない。「学校で会っている」などと言えば一気に限定されてしまう。悠長に考えている暇はない。受話器の向こうは沈黙が続いているが、アユカがこちらの言葉を待ち受けている。電話に押し付けられ、潰れそうになっているアユカの耳を想像する。
意味のないプレッシャーを受けながら、何かが閃き、出てきたのが、さっきの言葉だった。言い切った瞬間、アユカの息を飲む音が聞こえた。あるいは聞こえたような気がした。今は完全な無音だ。アユカの目が大きく見開かれて、全く動けないでいるのがわかる。もう後戻りはできない。
「どうして......どうして」
「どうして、てむしろなんで俺が、君の番号がわからないと思ったの?」
アユカは何も答えない。状況を飲み込むのが精一杯なのだ。
「俺は君の家だって知っている。行こうと思えば今すぐにだって行ける」
やめてください。はっきりとした口調でアユカが言った。動揺を悟られまいと、なんとか声を張っているようだが、かえって痛々しい。
「やめろだって? あんなに悦んでいたのに? あの時俺は無理やり君の服を剥がした。でもその後は君だって感じていたはずだぜ。自分から腰を振っていたんだから」
根拠のない妄想を夢中で喋った。何か抑え込んでいたものが、一斉に表に出てきたかのようだった。本当でも嘘でも構わない。今はとにかくアユカを性に溺れた淫乱女と決めつけ、とことん罵倒したかった。
アユカは何も反論しなかった。おそらく怖くて何も言えないのだ。恐怖のため、ワタルが話している内容すら頭に入っていないのかもしれない。冷静に現状を分析しながらも、何も言い返さないアユカが、ワタルは気に食わなかった。泣き声だとか、悲鳴だとかそういうのが聞きたい。やめてください、ともっと言われたい。苛立ちがピークに達したワタルは徐々にアユカを挑発するようになる。
「本当は君は俺が誰だかわかっているんでしょ?」
口調は他人を装う余裕がまだあるが、受話器を握る手に汗をかき、滑って落としそうになる。アユカの怯えぶりから判断すれば、アユカはレイプ未遂の犯人がワタルである事に気づいていない。だが、そんな事があるのだろうか。アユカはあの時、確かにワタルの顔を見ていた。ワタルがアユカの中に入ろうとした時の人形のような表情は忘れる事ができない。何度も考えた事だが、ワタルの顔を見ても記憶に残らない事は可能性としてはいくらでもある。しかし、そういった不確定な可能性にすがるのは、お前が犯人だとはっきり指をさされるよりも、かえって苦しい。
だからといって、ワタルが自ら犯人だと名乗る事もやはりできない。アユカはワタルを苦しめるために、わざと何も知らないふりをしているのではないか。なんとかこの場でアユカの感情を逆撫でして、アユカの本音を吐き出させたい。
「本当に俺が誰だかわからない?」
「わかりません」
「割と身近にいる人間なんだけど」
「私の身近で、そんなことをする人はいません」
「いるだろう? 例えばお前の父親とか」
「しません。......お願いだから、やめてください」
「もちろん俺はお前の親父なんかじゃないよ。あんなくそったれの偽善者なんかじゃない」
アユカの父親がどんな人間なのかは実際には知らない。それでも娘と性関係を持つ親なんてまともじゃない。
「でも考えてみればお前だって偽善者だよな。本当はセックスが好きで仕方がないのに、それを隠して純情ぶってやがる。肌が触れれば歯止めが利かなくなるのが怖くて、好きな男に触れることもできない。でも、周りはみんな気付いているぜ。お前がセックスに溺れた淫乱女だってことはな」
アユカは何も答えなかった。そのまま十秒程が過ぎ、電話は切れた。そのタイミングは、唐突のような感じがしたし、同時に頭のどこかで、そうなる事を予想していた。
結局のところ、ワタルは勝手な言いがかりをつけ、自分の気持ちをぶちまけたに過ぎない。だからといって、晴れ晴れしい気分には全くなれない。手に持った子機は熱を持ち、耳が当たっていた部分は汗で濡れていた。一瞬壁に投げつけようかと思ったが、寸前で思いとどまり、ベッドの上に放り投げた。
おそらくアユカは恐怖で震えているだろう。そんなアユカの様子を想像すると、気の毒でたまらなくて、ワタルは再び電話を手に取り、アユカの番号をプッシュする。が、いくら待っても繋がらない。もしかしたら、今アユカは家に一人なのかもしれない。そして、アユカはさっきの男からまたかかってきたと思い、電話の音に耳を塞いでいるのだ。
ふと外を見ると、窓の外は風が強くなり、木々を揺らす音が響いていた。ワタルは受話器を耳に当てたまま、ずっと外の暗闇を眺めていた。
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