18


 レイプ未遂の一件以降も、ワタルとアユカの関係は、何も変わらなかった。アユカの様子にも変化が無く、何事もなかったかのように、振舞っていた。実際に何もなかったのかもしれない。口に出して語られない出来事は、徐々に現実感を失う。だからと言って、こちらから切り出すわけにはいかない。アユカが本当に記憶を消してしまった可能性もある。軽はずみに詮索をすれば、アユカを再び地獄へ突き落としてしまう。つまりワタルにできるのは、アユカの行動に目を光らせる事くらいだった。

「ちょっと、うちに寄っていかない?」

 ある時アユカはワタルを家に招待した。部活も生徒会もない日だったので、まだ時間は早かった。早いと言っても十二月だったので、すでに日は暮れ、ワタルはあまり気が進まなかった。アユカは「大丈夫、今家に誰もいないから」とワタルの手を引いた。

 いつもの帰り道から外れて十分程歩いた住宅地に、アユカの家はあった。誰もいないという言葉の通り人の気配はなく、玄関にも灯りはつけられず、かえって屋外よりも寒い気がした。靴を脱いで階段を上がり、一番奥の部屋に通された。他の部屋の様子は全くわからない。階段の途中に小さな窓があり、そこから金星が見えた。家の中はどこか埃っぽい匂いがする。

 部屋に入るとアユカは照明と暖房のスイッチを入れ、カーテンを閉めた。六畳程の広さで、ベッドとタンスと机が並べられ、さらに大き目の本棚まであるので手狭だった。ドアの前でワタルが立ち尽くしていると、アユカは「狭いでしょ?」と言い、ベッドの上に座るよう促した。ベッドには黄緑色のカバーがかけられている。

「はい、これ」

 そう言われて、一枚のCDを手渡された。それでワタルはようやく、なぜアユカの家へ招かれたのかがわかった。数日前に音楽の話になった時に、ワタルが洋楽に興味を持った事が始まりだった。英語の時間にカーペンターズの歌を聞いて、アユカがこれは自分の好きな歌だと教えてくれた。それでワタルも聞いてみたくなったのだ。貸してくれる事にはなったものの、アユカは三日連続で、学校へ持ってくるのを忘れた。そして、今朝も忘れ、ついに帰りに取りにきて、という話になったのだ。朝一番に学校でワタルの顔を見た途端に「あ!」と声を上げ「また忘れた、ごめん」と謝られた。だからアユカがワタルがアユカの家を訪れる事は、突然でも不自然でもない。かえってためらったりするワタルの方が、余程おかしい。ただ、ワタルの中では、玄関先でCDを手渡され、その場で別れるものと思っていた。家に上がるという話は、朝の時点ではしていなかったはずだ。

 CDを受け取れば用は済んだ事になるが、その後もアユカはワタルに背を向け棚からCDを何枚か取り出し、それをコンポにかけて聞かせたりして、ビートルズやボブ・ディランの歌の解説をしてくれた。ワタルに感想を求め、前向きな回答を得られると、その場でケースにしまい貸してくれた。アユカは普段よりも、動きが機敏で早口だった。家にいて自分の好きな事を話しているからだろう。アユカが音楽好きだという事がよくわかる。コンポもワタルの家のものよりもはるかに大きい。スピーカーのボディは木目調で、重厚感がある。それを指摘すると「お父さんのお古なの」と返ってきた。

 音楽の話が一段落すると「お茶でも飲むよね?」と言って、アユカは部屋を出ていった。たくさん喋って喉が渇いたのだろう。建てつけが悪いのか、ドアを締める時にきしんだ音がした。部屋に残されたワタルは、借りたCDを鞄にしまった。全部で七枚もあった。正直一度にこんなに借りても仕方が無い気がしたが、これを聞かなければカーペンターズの良さもわからないから外せないらしい。七枚の聞く順番についてもアユカは熱く語っていたが、ワタルはほとんど覚えていなかった。だいたい女の子と二人きりで部屋にいるのに、CDを聞く順序なんかに構っている余裕はない。

 これで普通の恋人同士なら、口づけをするのか、あるいはそれ以上なのか、頭の中で色々妄想するのだろう。「親がいない」の一言にも、誘惑の要素を見つけ出そうとする。アユカにそれを求めるのは無理だ。アユカは父親に暴行を受けている。もしかしたら、このベッドに押し倒されて事におよんだのかもしれない。ワタルは立ち上がって、ベッドを眺めた。足側の先に姿見があって、ワタルの姿を写している。後ずさりすると、背中にスピーカーが当たる。父親のお古と言っていた。重厚な感じが父親そのもののように見える。ワタルは拳を握って、側面を軽く叩く。

 その時ドアがきしむ音を立てて開き、その向こうにアユカの姿が見えた。アユカは両手でお盆を持ち、その上にはお茶の入ったプラスチックの容器と、ガラスのコップが載っていた。おそらくいつも家族で飲んでいるものをそのまま持ってきたのだろう。家に誰もいないというのは本当らしい。両手が塞がっているアユカは、右足で隙間を広げるようにドアを開けてきたので、ワタルは内側からドアを開けてあげた。外から声をかければ良かったのに、と言うと「お客様だから」と盆を床に置き、コップに麦茶を注いでくれた。飲んでみると冷たく、目が覚めるようだった。

 アユカの部屋にはテーブルがなかったので、ベッドに腰掛けてしまうと、コップはずっと手に持っていなければならなかった。しゃがんで手を伸ばせばお盆に返す事ができたが、いちいち体を曲げるのは面倒だし、いつのまにかアユカが隣に座って壁のようになっていた。アユカはミッキーマウスの柄のコップを両手で包むように持ち、まっすぐ前を向いている。こんなにしっかり握り締めて手が冷たくないのだろうかと、ワタルは思う。エアコンから風の出る音はするが、あまり温かくならない。「寒くないの?」と言おうかと思うが、真っ先に謝られ、冷たいお茶を出した事を後悔されそうなので、言い出せない。アユカの方は、寒そうな素振りは全く見せない。

 ワタルがようやくコップを空にした頃、不意にアユカが体をつけてきた。重みと同時に、洗髪料の香りが鼻に入ってくる。ワタルの左手をとって、自分の手ではさんだ。いつのまにかアユカのコップはお盆の上に戻されている。

 誘われているのかもしれない。しかしこんな風になるのは初めてではない。生徒会終わりの放課後の教室で、アユカの方から体をくっつけてくる事は何度かあった。求められているのだと思い、ワタルなりに勇気を出し、同時に欲望を抑えながらアユカを抱き寄せようとすると、決まってあるところで拒否された。それは唇にしろ顔にしろ、直接肌が触れようとする瞬間だった。今もそうだ。アユカの顔はワタルの左肩に押し付けられ、二人の体は、制服によって遮られている。なぜそうなのかについては、よくわかっている。父親のせいだ。誰にも言えないような事を打ち明けてくれて、ワタルは嬉しかった。でもそんなものは時間とともに薄らいでいく。初めてアユカと手を繋いだ時、自分の意思とは関係なく体が震えた。ワタルはそれを相手に気付かれないように必死に隠した。それも遠い過去だ。今はこうして身体をくっつけあっていても、まったく別の事を考えている。

 今までと違うのは、アユカの家にいるという事だ。教室とは違い、他人の目に晒されることはない。自然とリラックスしてくる。そういえばアユカは「今日は家族がいない」と言っていた。そんな事を、わざわざワタルに伝える意味などあるのだろうか。CDを借りるだけなら、別に誰がいたって構わない。そうすると、やはりアユカは誘っているのか。手の平にじわりと汗をかく。右手のコップを落とさないよう握り直す。左手はアユカの手に挟まれたままだ。いつのまにか寒いという感覚は吹き飛んだ。ワタルの手の平の汗は、アユカに気付かれたかもしれない。そう思うと、もっと汗が出る。思わず手を引っ込めたくなる。だが、その一方で伝わって欲しいと思っている。今、激しくアユカを求めている事を、気付いて欲しい。

「私さ」

 突然アユカが口を開いた。はっきりとした口調で、部屋の中の空気が一気に変わる。二人が考えていた事がまるで違っていた事を、ワタルは悟った。アユカの手の間のわずかな隙間から、冷たい空気が入ってくる。

「夕方が苦手なんだよね。苦手っていうか、怖い」

 つまり今アユカは、恐怖に怯えているという事だ。ワタルは冷静に分析した。それなのに、自分はセックスの事ばかり考えていた。情けないのを通り越して、滑稽ですらある。ワタルは左手に力を入れ、アユカの手を握った。今更遅いが、アユカの支えになりたいと思っている。

「小学校五年生の時に、近所の二つ年下の男の子が、学校から帰って遊びに行ったまま、戻って来なかったの。みんなでどこ行ったんだ、て捜していたら、その子すぐ近くの水路に落ちて死んでたの」

 死んでた、の部分でアユカは体を更に押し付けてくる。ワタルはアユカの肩を抱いた。手が触れたのはブレザーの部分なので問題はない。

「水路を覗き込んで落ちたんじゃないか、て事になったんだけど、お葬式の時に近所のおじさんがこう言ってきたの。『夕方は死神が、子供を連れ去っていく時間なんだよ。きっとあの子も運悪く死神に狙われてしまったんだ。死神に狙われないよう、夕方は気をつけるんだよ』て。それを聞いて、私怖くて仕方なかったの。夕焼けを見ると友達と遊んでても、急いで家に帰ってお母さんのそばを絶対に離れないようにしていた。もちろん今になれば、おじさんは私にわざと言ったんだ、てわかるよ。でも、それでも、昼と夜の間の隙間から死神がにゅっと手を出してきて、私を連れ去ってしまうような気がするの。怖いの。良くない事も必ず夕方に起こるし」

 良くない事と聞いて、レイプの事を思い出さないわけにいかなかい。アユカを殴り、栗林の奥まで引きずって服を剥がしたシーンが、頭に浮かぶ。自分の下半身を出した時の、寒々とした感覚が蘇る。今まで一定だった自分の血の流れが、急に予測不能な動きを始める。支えていたはずのアユカの肩に、今はむしろ、しがみついているんじゃないかと錯覚する。

 アユカの狙いを考える。今の話は、ワタルを揺さぶるための作り話に思える。だが、謝罪の言葉が欲しければ、もっとストレートに言えばいいのではないだろうか。そもそも、こうして憎むべき相手に抱きつくのだろうか。アユカは夕方には死神が、と言った。つまりワタルは死神なのか。あるいは本当に記憶が消えているのかもしれない。レイプ犯=ワタルとなっていなければ、ワタルを頼るのは当然だ。実際にレイプされたという事を言い出せないのも理解できる。アユカは激しく傷ついている。

 アユカは下を向き、ワタルの胸に顔を埋めている。表情は伺い知れない。その体勢ならワタルの心臓の音がよく聞こえるはずだ。

「月、水、金は、お母さんパートでいないんだ。その日はこうやって、私のそばに居てくれない? 悪いけど」

 悪いなんて言うなよ、とワタルは返事をした。付き合ってるんだから当然だし、アユカが元気になってくれるなら、俺なんでもするよ。ワタルは手に力を入れて、さらにアユカを抱き寄せた。アユカは「ありがとう」と言った。泣き声だった。

 ワタルは激しく自分を軽蔑したい気持ちになった。結局ワタルは、アユカにとってなくてはならない存在になりたくて、アユカを襲ったのだ。初めからそうする気持ちはなかったが、結果的にそうなった。卑劣な行為だった。

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