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そもそも理解できないのは、なぜアユカの記憶が失われてしまったのかという事だ。もちろん、アユカが演技しているという可能性もある。だが、そうする事によるメリットはないし、第一あんな事をされて、なかったように振舞えるとは思えない。
三日前、ワタルはアユカをレイプした。いや、正確に言えば、レイプではない。性行為までは及ばなかったからだ。アユカの顔を殴り、押し倒して、無理やり服を脱がした。
きっかけはアユカから聞かされた、ある告白だった。それはアユカに対する父親の暴力についてで、そこには性的なものも含まれていた。
「男の人が怖いとかそんなんじゃないんだけど、やっぱり触られるとお父さんにされた事を思い出しちゃうの」
付き合いだして、三ヶ月が経つ頃、ワタルがアユカを抱き寄せようとすると、拒否をされた。以前生徒会の演説で、ワタルが後ろからアユカの肩に触れた時に転倒したのも、男に対する過剰な拒否反応が働いた為だった。その時ワタルは手をつなぐ位では物足りなくなっていて、可能なら一気に性行為まで済ませてしまいたかった。周りの友達の中には、すでに恋人と事に及んだ者もいる。彼らは童貞を捨てた事を露骨に自慢してはこないが、それでも自信のようなものが、にじみ出ている。まだ付き合う相手もいないのなら諦めるしかないが、ワタルにはアユカがいる。
アユカの告白を受けて、ワタルは心の底から同情した。どうして自分の子どもを性の対象として見られるのか、理解できなかった。自分に置き換えてみれば、母親に性的興奮を抱くという事だ。吐き気がする。
気になる部分はかなりあったが、ワタルはほとんど何も質問しなかった。下手な事を聞けば、アユカを傷つけると思ったからだ。この場合、まずはアユカの語る事を受け止める事が最も大切なのだ。
結局アユカの口から、詳しい事が語られる事はなかった。終始淡々とした口調で、どこか他人事のような言い回しだった。
「ワタルが私に求めてることはわかるし、できれば私も応えたいと思ってるよ。でも、もう少し待って欲しいんだ」
最後にそう言ってアユカはワタルの手を握り、もたれかかってきた。ワタルは肩を抱いた方がいいのか迷ったがやめておいた。アユカは相当な勇気を振り絞って、ワタルの体に触れているのがわかったからだ。
ワタルは、アユカの状況を病気のようなものとして捉える事にした。病気で性行為が出来ないという恋人たちは、世の中にたくさんいる。心の繋がりがあれば、そんなのは、大した障壁にならないに違いない。ワタルは世のセックスレスカップル達と、勝手に連帯感を抱いてこの問題のインパクトを、より小さくしようと試みた。
何よりも、アユカは誰にも言えないような事を、ワタルに打ち明けてくれた。話の終わりに「この話は誰かにした?」と確認してみたが、誰にも話していないとの事だった。つまり、ワタルはアユカの最も重大な秘密を知った事になる。できればワタルも自分の秘密を打ち明け、絆をさらに強固なものにしたかったが、あいにくアユカの抱えているものと釣り合う秘密が見つからない。
アユカはもう少し待ってほしいと言った。つまり、いつかは普通の恋人同士になれるという事だ。いつか、というと果てしなく先の事に思える。ワタルは結婚しようと思った。結婚は永続的に続くものだ。そう考えれば、アユカの「いつか」も割合、すぐに来そうに感じる。
ワタルは家での自慰行為の回数を増やし、アユカに性的興奮を抱かないように務めた。手も自分からは繋がないようにした。その代わり、気持ちは積極的に言葉に出すようにした。結婚しよう。ある時思い切って言ってみると、アユカはうつむいて髪をかき上げながら「うん、しよう」と答えた。
だが、ワタルが自分の性欲を抑えている事は、アユカになんとなく伝わってしまう。ワタルに「ごめん」と言う回数が増えた。以前のように、気安く体をくっつけてくる事がなくなった。
ワタルはふと、生徒会の選挙を一緒に頑張っていた時の事を思い出した。わずか数ヶ月前の出来事だが、無性に懐かしく感じた。あの頃はまだ片想いだった。なんとなく、アユカは自分に気があるだろうと感じていたが、それでもアユカの行動ひとつひとつに、一喜一憂した。とにかく少しでも一緒にいたいと思った。アユカの事なら、どんな些細な事でも知りたいと思った。セックスの事は何故か全く考えなかった。恋愛なんて、片想いの方が余程楽なんだと思った。
ある日の帰り道、ワタルは数メートル先をあるくアユカを発見した。季節は十一月で、日は傾き、既に周りは薄暗くなっていた。アユカの後ろ姿、紺のブレザーはそんな薄闇と同化しかけていたが、ワタルにはすぐ見分けがついた。そこは車通りが少ない裏道で、歩道もなく、アスファルトは所々でひび割れていた。脇には潰れてしまった工場や雑木林、畑が並んでいる。空気は冷たく、人通りは全くない。
ワタルは、息を殺しながらアユカに近づき、声もかけずに肩に手をかけた。そんな事をしたら、アユカが心臓を口から吐き出すくらい驚く事はわかっている。すべきではない行為とわかっていたが、何故か悪戯心が働いた。どうせ相手がワタルだとわかれば、安心するのだ。
予想に反して、アユカは手を思い切り払うと、そのまま振り向きもせずに一目散で逃げ出した。手に下げたバッグと、一つにまとめられた黒い後ろ髪が大きく揺れ、みるみるワタルとの距離が開いていく。
すぐに「俺だよ」と言えば、アユカは気付いて、それで済んだのかもしれない。しかし一瞬の機を逃してしまった。今から呼びかけても、アユカの耳には届きそうにない。ワタルも走って、アユカを追いかけなければならない。
相手も必死に走っているのだから、そう簡単には追いつかない。アスファルトに靴底がぶつかる音と、自分の吐き出す息遣いが、押し寄せるように耳に入ってくる。走りながら、追いかけているのが自分だとわかったら、アユカはどんな顔をするのかを考えていた。おそらく泣き出すだろう。「びっくりした」なんて言いながら、涙も拭かずにワタルの胸に飛び込んでくるかもしれない。その後「全力で走って、馬鹿みたい」と二人で笑うのだ。
アユカの背中は少しずつ大きくなるものの、なかなか追いつかない。ワタルは焦れて、徐々に苛立ちを覚える。何より苦しい。全力疾走なんて、そう何十メートルもできるわけではない。荷物も持っている。
足音に合わせて、こみ上げるように、ふと別の考えが浮かぶ。もしかしたら、アユカは追いかけているのがワタルである事に、気づいているのかもしれない。それなら何故逃げるのか。ワタルの事を恐れているからだ。自分を抑える事のできなくなったワタルが、襲ってくると思っているのだ。アユカは結局のところ、男は根本的には同じものだと思っている。女は、男にとって性のはけ口でしかない。逃げなければ、犯される。
アユカは今、追いかけているのがワタルだという事を、知っている。
道が栗林の脇に差し掛かった時、何故かアユカは進路を変え、その中へと入っていった。うまく隠れてワタルをやり過ごそうと考えたのかもしれない。だが、それは完全に判断ミスだった。栗の木は背が低く、更に落ち葉に足を取られ、走るスピードが一気に落ちる。何メートルも進まないうちに、ワタルはアユカに追いついてしまった。
右手で左肩を掴むと、ワタルは力任せにアユカを振り向かせた。反射的にアユカは顔を背ける。暴力の気配を感じ取り、咄嗟に防御の姿勢をとったのだ。つまり、もはやこれは暴力の流れなのだ。ワタルはアユカを殴った。左手で右の頬を狙ったが、うまく当たらない。今度はアユカを抑え込み、右手で慎重に狙う。手応えがあった。自分の拳に血が集まって痛みを感じ、同時に他人の手のように感じる。アユカは、顔を歪ませながら、殴ってきた相手を確認する。目が合う。ワタルが襲ってきた事を認識する。もう後戻りはできない。アユカはどうにか逃れようともがく。ワタルはアユカの髪の毛を掴んで自分の元へ引き寄せると、さらにもう一発殴る。栗の幹へ目掛けて、アユカの体を突き飛ばす。連続した動作で、ワタルの息遣いは激しくなる。唾を飲み込もうとするが、うまくいかない。アユカは木の根元へへたり込んで、もう逃げようとはしない。ワタルはアユカの腕を取り、さらに奥まで引きずり込む。他人に見られる事を警戒したのだ。そんな事に頭がまわる自分が、いかにも姑息だ。
アユカの制服と靴は、ワタルに引きずられていくうちに泥まみれになり、髪をまとめていた赤いゴムも、どこかへなくなってしまった。ずるずると何メートルか引きずった後で、アユカの上に馬乗りになり、なんとなく殴った。もはや抵抗らしい抵抗もしないので、あえて暴力を振るう必要はない。その時になってようやく気づいたが、アユカはいくら殴られても悲鳴を上げない。身を固めながら、なんとかやり過ごそうとしているようだ。その事を確認したくて、アユカの頬をもう一度張る。やはり殴る音以外に聞こえるのは、落ち葉が擦れる音と、小枝の折れる音だけだ。アユカは動かない。一瞬死んでいるのかと思ったが、目に涙を溜めているので、生きていると判断した。
つまりこのままレイプをしても、助けを呼ばれる心配はないという事だ。ワイシャツを引っぱって肌を露出させると、アユカは腕で顔を覆った。
アユカは全身の力が抜けていて、人形のようだった。それなら、強引に事をすすめる必要はない。ワタルはアユカのワイシャツのボタンをゆっくりと外し、下着をたくし上げ、手の中に乳房を納めた。乳首を指で挟んでみた。自分は、今興奮している。それが、性的なものなのか、この一連の行動に対してなのかは判断できない。アユカの顔を見る。腕で隠されていて、表情は伺い知れない。見えるのは半開きの口もとだけだ。涙で口の周りが濡れ、そこに土がついている。
スカートをめくって、下着をつかむ。横になっているから、うまく下ろせない。段々と、力任せになる。アユカの下半身を持ち上げて引っ張る。予想よりも、重い。
ようやくアユカの下半身を露出させ、ワタルも自分のズボンを下ろす。冷たい空気が、ワタルの肌に触れ、一瞬冷静になる。自分はこれからこの女とセックスをする。
だが、その後どうすればいいのかがわからない。もちろん自分の性器を全体的な流れは、アダルトビデオで知っているが、肝心の部分はいつもモザイクで隠れてしまっている。挿入する部位について、今ひとつ確信が持てない。
何度か自分の性器をアユカに押し当てた後、やがてワタルは途方に暮れてしまった。アユカを押し倒した時にかいた背中の汗は、いつのまにか乾いていた。暗闇がさっきよりも濃くなってきている。この距離でも、アユカの表情を読み取るのが難しくなってきた。見開いた目が光を放っている。
目。
その時になって、アユカがワタルを見ている事に気づいた。服を脱がせるまでは、確かに腕で顔を覆っていた。それがいつのまにか、ワタルの行動を観察している。表情はない。ひょっとすると、もはや正気を失って、ただ視線をこちらに向けているだけかもしれないが、そんな風に都合のいい解釈をしてもいいのだろうか。アユカは、ワタルが手間取っている様子を、ずっと見ていたのだ。
そう思った瞬間、まともに目が合った。大きく見開かれた目は、全く瞬きをしない。ただひたすら、ワタルの目をのぞき込んでいる。アユカの視線には、やはり意思がある。激しい羞恥心にかられる。アユカは父親と性の関係を持っている。その父親と、目の前の男を比べたに違いない。そしていつまでも事を始められないワタルの事を、心の底から見下しているのだろう。
アユカの目に映った自分の姿を想像すると、もはやその場にいる事は出来なくなった。ワタルはアユカを残し、その場を立ち去った。
アユカは二日間学校を休んだが、その翌日は普通に登校してきた。ワタルが何度も殴った顔は、特に傷も痣もなく、表情も普段と変わりがなかった。友達に「ちょっと風邪引いちゃってて」と話しているのが聞こえた。
その日は丁度、放課後に生徒会の定例会があった。アユカは最低でも一週間は休むだろうと決めつけていたワタルは、どんな風に接すればいいのかわからなかった。今日は遠目に様子を伺うだけで、話もしていない。普通に考えれば、アユカは二度とワタルには近づかないだろう。登校拒否になってもおかしくない。
そんなワタルの心配をよそに、放課後になるとアユカの方から声をかけてきた。生徒会室へ向かう道中で、昨日のテレビの話をし、会の途中では珍しく手を上げて発言した。帰り道もいつもと変わらなかった。
そうなると、一昨日の出来事が現実感を失う。夢だったのではないかと思うが、もちろん夢ではない。頭の中で、アユカの服を脱がせた場面が再現される。
もしかしたら、アユカはショックで記憶が飛んだのかもしれない。確かに行為には及ばなかったが、男に殴られ、無理に服を引き剥がされるだけで、十分なインパクトは与えられたと言える。最初に殴られた時点で意識を失っていたと考えてもいい。だとすれば、わずか二日で学校へ復帰した事も、何の警戒もせずにワタルに近づいてきた事も説明がつく。
その考えが、少なくとも現時点では最も妥当だと思っても、ワタルには納得ができない。もし、三日前の行為に目撃者がいなければ、アユカの記憶喪失で、全てがなかった事にできる。あとはワタルの罪の意識とかそういう問題だけだ。だが、それは間違っている。罪に対しては、なんらかの罰が用意されなければいけない。
ひょっとしたらアユカは記憶のないふりをして、ワタルを心理的に追い詰めたいのかもしれない。
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