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夏休みに入ると、早速予備校の公開模試を受けた。送られてきた結果は散々で、いよいよ現実を突きつけられた感じだ。志望校は、どれもDとかE判定で、アドバイスの欄には、まずは基礎をしっかり固めようみたいな事が書かれている。そんな事言われなくても分かってる。


とにかくこのままではまずいので、本屋へ行って参考書を買う。帯に【これで基礎はしっかりマスター】と書かれてるのを選んだ。科目ごとに分かれているが、とりあえず国語と数学を買う。文系も理系もあったもんじゃない。苦手の英語はとりあえず後回しにした。その後赤本のコーナーに赴き、何冊か立ち読みし、志望校のものを一冊購入する。


準備も整い、あとはひたすら勉強するべきなのだが、読むのは巻頭の【受験生の心構え】ばかりで、ちっとも本編に入らない。ここ数年の問題の傾向とか、勉強のコツ、先輩の体験談、あとは過去五年の受験倍率とかが掲載されている。三年くらい前から十倍を切って、狭き門でもなくなっているとのことだった。希望が湧いてくる。


小説の事も忘れてはいけない。なんとか夏休み中に書き上げたい。加藤は返すのはいつでもいいと言っていたが、それは悪いし、こっちもいつまでも、小説に構ってるわけにいかない。さらに卒制を仕上げてワープロを返すと言えば、加藤と会う口実ができる。この前と逆回しで、今度は私の家から加藤の家まで、ワープロを運ぶ。そして、出来上がった作品を読んでもらう。加藤は一番に読みたいと自分で言ったのだから、嫌がるはずはない。


作業は諏訪の直しを考慮しながら、全体を整え、それをワープロで打ち込んでいくだけだ。改めて自分の書いたものを読み返すと、ものすごく幼稚に見える。諏訪の指摘意外にも、意味不明な箇所が数多くある。よくもこんな物を他人に見せたとすら思う。加藤に読んでもらうなんて論外だ。ストーリーはこのままでいいとしても、最初から書き直したほうが早そうだ。受験という現実から目を逸らそうとしている気もする、仕方がない。


そうやって勉強と小説を言ったり来たりして、私の夏休みは過ぎていった。勉強の息抜きにに小説をし、小説の気分転換に勉強をしていたが、どちらも表面を撫でるばかりで、効率は悪かった。これならどこかの夏期講習でも申し込めば良かった。しかし早起きするのも人と会うのも嫌だ。もし誰かに誘われたら行っただろう。加藤なら百パーセント行く。しかし加藤は短大志望だ。短大を出て、保育士になるらしい。


熱気に包まれた自分の部屋で、網戸に止まったアブラゼミが、こちらに腹を向け、癇に障るような鳴き声を上げている。さっき起きて昼食を済ませ、午後一時を回ったところだった。部屋の壁紙まで熱を帯びている気がする。あれだけ寝たのに、ベッドに横になるともっと寝れる気がする。このまま眠るなら、冷房のスイッチを入れたい。まだ八月の一週目で夏休みは半分以上残っている。


クーラーのリモコンに手を伸ばしかけたところで、母親に呼ばれる。電話がかかってきてるとの事だった。「誰?」と聞くと越川からだった。正直加藤の方が良かった。加藤という発音を、越川と聞き違える可能性について考える。限りなく低い。

「生きてるか?」

「なんとか」

冷房にスイッチを入れ、窓を閉める。

「書いてるか?」

「うん、まあ」

曖昧に答える。反射的に加藤の顔が、頭に浮かぶ。休み前に、越川より先に小説を見せる約束を、加藤とした。その晩、加藤が越川と細貝に犯される夢を見た。夢の中とは言え、越川には随分なことをさせてしまった。趣味の悪いランニングシャツを着せ、下半身丸出しにさせてしまった。お詫びに加藤との約束を反古にして、未完成の原稿を越川に渡そうか。しかし加藤もひどい目に遭った。いつのまにか私は板挟みになっている。そもそも私の書いた物に、そんな価値なんてないのに。


「今から学校来ない?」

「学校?」

「安藤さ、四大志望だろ? せっかくだから一緒に勉強しようぜ」

私は越川も四大志望だということをそのとき初めて知った。越川は知っている。この前の模試の時もいて、その時に私の姿を見たのだろうか。何にせよ、これは渡りに船で、受験勉強に本腰を入れるチャンスであった。これで夏休みの残りを無駄にしないで済む。それは良かったが、なんとなく嫌な予感がする。

「ていうか、俺とお前の二人でやるの?」

「違うよ」

「誰がくるの?」

「猿渡と内藤」

やっぱりそうだ。一気に私のテンションは下がる。猿渡にしろ内藤にしろ、私は全く面識がない。猿渡はあの猿渡だ。越川に恋する哀れな女。内藤も同じクラスだが、わかるのは女子という事だけで、顔すらはっきり浮かばない。その程度の存在だ。向こうだってそんな感じだろう。気まずい。越川は、男女のバランスを取るために、私に声をかけたのだ。だったら北川とかでいいだろうに。断りたい。おまけに越川は「猿渡と内藤は英語が得意だろ?それで、お前は国語を担当する。これで完璧じゃん」なんて言っている。じゃあお前は何をやるんだよ。突っ込みを入れたいところだ。いっそ断ってしまいたくなるが、躊躇する。そうできないのは、今まで小説を読んでもらってる事に対して、恩義を感じているからか? それとも、卒制は加藤に見せると決めた後ろめたさからだろうか。


結局私は越川の言うがままになり、電車の時間を確認し、待ち合わせは改札の前と決める。猿渡と内藤は、反対方面に住んでいるので現地集合になる。電話を切る直前に、あわてて「制服は着ていくのか」と聞くと、受話器の向こうで爆笑された。

「何言ってんだよ? 海パンにビーサンに決まってんだろ?」



駅までの道のりを自転車で移動しながら、あれこれ考える。この勉強会を企画したのは、越川と猿渡だろう。もともとは猿渡が二人きりで勉強するために、越川を誘ったのかもしれない。越川はそれを避けるために、私を呼んだのかもしれない。越川が猿渡の気持ちに気づいていないはずはない。どこまでもかわいそうな猿渡。と私はついつい猿渡の肩を持ってしまう。猿渡の事が好きなのかもしれない。猿渡は背が高くて足が綺麗だ。髪も長くてさらさらしている。「付き合って」と言われたら付き合ってもいい気がする。もし私が猿渡に恋をして、それを越川に相談したら喜んで協力してくれるだろう。この勉強会を利用して、私と猿渡の距離をうまい具合に縮め、くっつける事に全精力を傾けるだろう。越川は偽善者だから、人のためになる事が大好きなのだ。


越川と最寄りの駅で落ち合った所で一気に現実に引き戻される。私は猿渡に恋愛感情を抱いてはいない。

「海パンはどうしたんだよ?」

越川は私の顔を見るなり言った。あまりの暑さに、言い返す気にもならない。ホームは無風で、日陰に立ってるのに、涼しさのかけらもない。銀色に光るレールから、陽炎が立ち昇っている。反対側のホームが、蜃気楼みたく見える。白い日傘をさした女が手帳を開いている。この女は幻かもしれない。さすがに越川も険しい顔をしている。


ようやくやってきた電車に飛び乗り、がらがらのシートに腰掛けて、やっと生きた心地を得る。今までかいた汗が一気に冷えて固まり、ポロシャツが背中に貼りつく。車内の窓は全てブラインドが降ろされ、うす暗い。越川と話をしているうちに、勉強会は予想通り猿渡と越川で企画したという事がわかった。二人とも模試の結果が最悪だったらしい。「だったら二人でやればいいじゃん」私は冗談ぽく言ったが、越川は「二人でやってもなあ」と曖昧に答えるだけだった。駅につくと聞き慣れない電子音が鳴り、越川は鞄からポケベルを取り出す。

「もう向こうは着いたみたいよ」

画面を確認して越川が言う。銀色の鎖のついた越川のポケベルを見るのは初めてだったが、別に持っていても不思議ではない。おそらくクラスの半数は持ってるだろう。送ってきたのは猿渡か内藤かは知らないが、二人とも使いこなしているに違いない。私は持っていないし、欲しいとも思わない。


夏休みの学校は、当然ながら暑いが、人があまりいないせいか、がらんとして開放感があった。校門をくぐると、吹奏楽部のホーンの音や野球部の金属バットの音が聞こえ、それらの音が午後の空気を間延びさせているように感じる。


図書館の閲覧室に入ると、すぐに猿渡と内藤の姿を見つける事ができた。他に人はいなかった。内藤を見て顔と名前が一致する。眼鏡をかけている。窓際のテーブルに、隣同士で座ってお喋りをしている。机の上には一応参考書らしき物が並べられているが、ノートは開かれていない。


猿渡がこっちに気づいて、手を振る。越川が「おぃっす」と馴れ馴れしく言って、私も便乗してフレンドリーに挨拶しようとするが、もごもご口を動かすだけで、相手に伝わらない。席につくと、二人の女子は机の下からこっそり、飴だのチョコだのを出して、私にも分けてくれる。司書の目を気にしながら一気にチョコレートを頬張ると、甘さが口の中に広がる。なんだかそれで、秘密を共有したみたいで、一気に打ち解ける。


越川からは特に指示はなかったが、自分の持ってる参考書や問題集は全て持ってきた。お陰で鞄はそれなりの重量になったが、とりあえず何かの役には立つだろうと思ったのである。ところが、猿渡はプリントの束を皆に配り始めた。何かと聞くと、それは進路指導部が、四大進学者の為に作った基礎問題集だった。それを猿渡が職員室へ行って人数分刷ってくれたのである。そんなものがあったとは知らなかった。進路指導部というものの存在も、このとき初めて知った。

「四大志望者は取りにいけって、休み前に先生が言ってたじゃん」

「聞いてなかった」

「まったく、安藤は肝心のことを聞いてない、昔から変わんないね」

「いや、お前とは高校から知り合ったんだし」

「ていうか、プリント知らなかったのは越川くんも同じでしょ? わたしが教えたんだから」

「まったく、越川は前世のころから何も変わんないね」

「は? 前世? お前、俺が前世の巻き貝だったときのこと知ってんのかよ?」

「巻き貝? 伊達巻きって聞いてたけど」

「ウケるんですけど」

手で必死に渦を巻いて貝を表現する越川に、女子たちが笑い出す。気を取り直して勉強、となるが、友人同士の勉強会の多くがそうであるように、本当に真面目に勉強したのは最初の三十分くらいで、あとはお喋りばかりしていた。越川と私が言い争いをして、女子たちが笑うというパターンが出来上がった。猿渡はN大学の商学部を志望していて、内藤は福祉関係のT大かS大に行きたいと言った。越川と私は入れればどこでも良かった。私は本当は文学部志望だったが、黙っていた。


それからテレビの話になって、猿渡と内藤がドラマの話を始める。私と越川はめちゃくちゃな最終回をでっち上げて、嫌な顔をされる。大騒ぎになったが、司書から注意される事もなかった。他に人がいなかったせいだろう。図書館の中は、行きの電車程には冷房が効いていなくて、慣れてくると蒸し暑かった。テーブルの上に載せた腕に汗をかき、くっついてしまいそうになる。


猿渡も内藤も、思っていたよりもずっと話しやすかった。私が冗談を言うと、本当におかしそうに笑う。私は、自分の周りに壁を作り過ぎなのかもしれない。あるいは越川がいると、自分も話が上手くなったように感じてしまう。


夕方になって、誰かが帰ろうと言い出し、次回はいつになるかの話になった。四人の都合が合うのは、二週先の金曜日だった。

「あ、この日お祭りだよ」

そう言った猿渡のテンションが急上昇する。開いたピンクの手帳の、おそらくその日と思われる箇所を、ペンで何度も叩く。【お祭り】と書かれているのだろう。キラキラしたシールでも貼られているのかもしれない。自動的に、勉強が終わった後は祭りに流れる事となる。誰も意義なし。私は人混み全般が嫌いだったが、この四人なら楽しい気がして何も言わなかった。猿渡は目を輝かせて、越川に説明している。駅通りにたくさんの露天が並ぶとのことだった。猿渡と内藤は隣町に住んでいて、夏は必ず行くそうだ。

「じゃあ浴衣で集合ね」

越川がまた無責任なことを言って私たちは別れた。

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