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ある日ワタルは、生徒会の役員に立候補しようと考えた。バスケ部に入って、この上さらに生徒会の集まりがあれば、多忙を極める。が、バスケに関しては、実力が思うように伸びず、以前程の情熱が持てない。先月レギュラーを外されてから、そのまま控えに甘んじている。背はそこそこ高いが、足回りが鈍くて、相手にすぐにかわされるのだ。どうせ試合に出られないのなら、バスケは遊びと割り切り、活躍の場所を別に移したい。
ワタルは、それにアユカも誘ってみた。引っ込み思案のアユカは、最初は冗談としてしか受け取らず、本気だとわかると「私なんか無理に決まってんじゃん」と泣きそうな顔になった。アユカは気が弱い。男子と話すことに慣れていないから、少し強い言い方をすると、途端に目が泳ぎ、早口で何を言っているのかわからなくなる。
「どうして無理なの?」
「だって私そういうの向いてないし」
無理って誰が決めたの? 自分で思っているだけじゃないの? 出てくる答えは「無理だから無理だもん」と極めて論理性に欠いたものだった。
だが、ワタルは立候補の届出用紙に、アユカの名前を書いて勝手に出してしまった。アユカにそれを告げると、みるみる顔が青くなり「どうして」と、消え入るような声で言った。ワタルの事を非難したかったようだが、言葉がでてこない。泣きはしないが、目が赤く充血している。ワタルはやり方は強引だったが、陥れるつもりはなかった。今なら、届出を取消す事ができる。本当に嫌なら、取り下げに行くから言って欲しいと伝えた。その後で、自分がアユカとどうしても一緒に生徒会をやりたい事、アユカもやれば絶対楽しくなる事、ついでに内申点も上がって進学に有利な事も付け加えた。
ワタルの説得には自然と熱が入り、アユカもそんなワタルの声を聞き流す事ができない。
「なんで私にそんなに出てほしいの?」
「なんでって……やっぱアユカに変わって欲しいから」
思わず「アユカが好きだから」と告白しそうになるが、咄嗟に「変わって欲しい」と言い換えた。実際に、変わって欲しい部分なんてない。強いて言えば、もっと前向きになって欲しいくらいだ。たまに言う「どうせ私が」という言葉が、どうしても引っかかる。
アユカがもっと突っ込んで聞いてきたら、その事も言おうかと思っていたが、黙ったまま何かを考えていた。何かが心にヒットしたのかもしれない。
「多分当選できないと思うけど、いい?」
「もちろん」
「じゃあがんばる」
そう言って、アユカはワタルの顔を見た。決心した事をきちんと伝えたくて、勇気を出して見つめている様に感じる。目に力を感じる。なんだか可愛らしい。そう思った瞬間、アユカの表情が崩れる。「でもどうしよう」と泣きそうな顔で笑った。
翌日担任が二人の立候補の事をクラスに伝えると、選挙運動はクラス全体のイベントのようになった。早速その日のホームルームで、役割を決める事になり、演説の原稿を書く人、のぼりを作る人などが決まった。それから朝や昼休みの演説スケジュールを決め、付き添う人間のローテーションを組んだ。最後に二人が教室の前へ出て、意気込みを語る事になったが、アユカは「頑張ります」というのが精一杯だった。小さく上ずった声で、一番後ろの席まで届いたかどうかも怪しい。担任が心配そうな顔をしていたが、特に何も言わなかった。
一週間後の選挙期間が始まると、いつもより一時間早く家を出て、校門の前に立つ。自分の名前の入ったタスキを掛け、誰かが登校してくる度に「よろしくお願いします」と頭を下げる。隣のアユカを見ると、顔を真っ赤にさせ、声もほとんど出ていない。両サイドの女子もアユカの雰囲気に飲まれて、緊張感がみなぎっている。「私には向いていない」と言っていたが間違ってはいなかった。「大丈夫?」と声をかけると「大丈夫」と強がるが、これでは演説の意味が無い。最初のうちは同じ事を一緒に言おうと、ワタルは提案した。合図を出して、二人の名前を言うのだ。
最初のうちはワタルの声しか聞こえなかったが、徐々にアユカや女子たちの声も混ざってきた。アユカはお腹のところに手を当て、本当に絞り出すように声を出している。口を目一杯に開き、目をつぶっている。周りなんか見えていないはずだ。タスキが肩からずり落ちているのに気づいていない。アユカの体格とタスキは合っていないが、名前を大きく見せるためには仕方ないのだ。落ちた事を指摘してやろうかと思ったが、せっかく一生懸命なのに邪魔をしては悪いと思い、ワタルは背中側から近づき、タスキを肩に戻してやろうとした。
ワタルがアユカの肩に触れた瞬間、アユカは体を震わせ五センチ位飛び上がった。何が起こったのか確認しようと勢いよく振り向き、その際足がもつれた。アユカは隣の女子を巻き込んで転倒してしまった。巻き込まれた女子は「痛い」と悲鳴を上げたが、アユカは声も上げず、ワタルの顔を見続けていた。咄嗟にワタルは謝り、タスキの事を説明した。すぐに笑いが起こり「アユカちゃん、リアクション大きすぎるって」と立っていた別の女子が言った。アユカは半ば放心状態だったが、手を貸してもらって立ち上がると、恥ずかしそうに「ごめん」と謝った。スカートの部分の埃を払い、タスキを肩にかけ直す仕草はどこかぎこちなかった。
最初はどうなるものか心配されたが、アユカは徐々に人前で声を出す事に慣れ、三日経つ頃には、ワタルとは別に演説する事ができるようになった。表情は相変わらず固いが、アユカの声は意外とよく通る。「今まで声帯使ってなかった分、すり減ってないからよく出るんだよ」そうワタルがからかうと「お風呂でも練習してるから」とアユカは真面目に答えた。余裕が出たのか、時にはアドリブで話をする事もあった。
投票日の前日に、体育館で演説会が行われた。そこで全校生徒の前で、最後の演説を行う。役職ごとに喋り、順番はワタルが先になった。ワタルは、クラス全員で考えた原稿を見ながら無難にこなし、舞台袖に引っ込んでから、反対側を見た。次の順番であるアユカが待機している。
アユカは手に原稿を持っていない。「原稿を見ちゃうと、聞いてる人を見られなくて、伝わらないってお父さんが言っていたから」と言っていた。それを聞いて、ワタルもなるべく原稿は見ないように努めたが、それでも最初から持たずに臨む程の度胸はない。内容を忘れたらどうするの? と聞くと「そしたらアドリブで喋る」とアユカは笑った。わずか二週間程の選挙活動だったが、最初の頃のおどおどした感じは全くない。おそらく家でもかなり練習したのだろう。
マイクを通したアユカの声は、別人のようだった。校長や他の教師が壇上で話しているときは、そんな風に思った事はない。アユカは小柄なので、他の候補者の時よりも、演壇がより大きく見える。肩にかけたタスキには、誰かのアイディアで、ピンが止められる事になった。舞台の端のめくりには、アユカの名前が大きく書かれている。太字のマジックの名前は、何故か他人のもののように見える。
アユカの喋る内容は、ワタルのものとは違うが、クラスメートの前でリハーサルをしたので、どんなものかはわかっている。教室の美化とかそんな事だ。まずは自分の名前を言い、自己紹介から入る。練習の時よりもゆったりと話している。聞いているこちらの方が緊張しているんじゃないかと思うくらい、リラックスしている。話す内容を完全に自分の物にし、息継ぎも自然で、時には手振りを入れながら語る。アユカが今話している事を、全校生徒の何割が聞いているかはわからない。生徒たちは体育館の床に直に座り、目に見えるところでも、前後の男子が声を押し殺しながらふざけ合っている。ほとんどの生徒にとって、生徒会の役員に誰がなるかなんて、どうでもいい事だ。しかし、これでアユカが当選しないとしたら、何かが間違っている。それくらいアユカの演説は完璧だった。
何の問題もなく終わりに差し掛かったところで、アユカは突然原稿にない事を喋りだした。それは選挙活動を手伝ってくれたクラスメートへのお礼であり、また、立候補する事で、塞ぎがちであった自分が変われた事に対する喜びだった。もちろんこんな事を言って、聞き手の雰囲気が変わるわけはない。しかし、クラスメートの何人かは感動するだろうし、教師たちは「一人の女生徒の成長」と美談にするだろう。ワタルはふと、アユカのアドリブを冷めた目で見ている自分に気付いた。アユカは間違いなく変わった。二週間でこんなに変わったのだから、これから先は本当に別人のようになるだろう。そうしたらワタルに対する興味も失うかもしれない。ワタルは「きっかけをくれた友人」の位置に収まり、遠ざかっていく過去に押し込まれてしまうのだ。難なく喋りきったアユカは、盛大な拍手に包まれながら、袖に下がった。ワタルは一番に声をかけたくて、舞台脇の控え室の扉の前に立った。もう少ししたら、そこからアユカが出てくる。既に次の候補者の声が、スピーカーから聞こえてくる。アユカに比べると、くぐもって、通りの悪い声だ。アユカは出てこない。おかしいと思ってドアを開け中に入ると、階段の脇でアユカはうずくまっていた。声をかけても返事はない。近づいて顔を覗き込むと、泣いていた。ワタルが何かあったのか聞いても、手をかざすだけで何も言わない。まともに喋れないくらい泣いている。手をかざしたのは大丈夫の合図だ。次の候補者が演説を終えて、降りてきたら厄介だな、誰か教師を呼んでくるか、とワタルが迷っていると、アユカが立ち上がって「ごめんね」と謝った。まだハンカチで目頭を抑えているが、大分落ち着いたようだ。ワタルが「大丈夫?」と聞くと、終わってほっとしたら涙が止まらなくなった、と言って笑った。泣き顔を見られたのが恥ずかしいのだろう。あわてて落ち着かせようとしたせいか、言葉は途切れがちだった。
「ありがとう」そう言ってアユカは手を出した。「ワタル君が生徒会に誘ってくれたお陰で私頑張れたよ。今までの人生の中で一番頑張れたかも」
「役員になれるといいね」
そう言ってアユカの手をとった。冷たい手だった。ずっと繋いでいたかったが、さすがに不自然なので二秒くらいで離した。
正直ワタルはほっとしていた。別人のように急に自信に満ち溢れたように見えたアユカであったが、やはり仮面をつけているにすぎない事が、わかったからである。
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