7

二十分ほど電車に揺られ、改札を出たところで一度別れる。自転車を停めている場所が、異なるためだ。私は西口の市営駐輪場を利用していて、加藤は東口の有料のところを借りている。田舎の駅だが、東口はまだ、コンビニや居酒屋があって、駅前らしい。対して西口はロータリーすらない。出口の目の前にガードレールが立っていて、タクシーが一台横付けされているだけだ。


市営の駐輪場は、そこから百メートルほど歩いたところにある。無料だから、停め方に何の秩序もなく、粗大ゴミ置き場と様子が変わらない。自転車を停めるエリアと歩道は、白線でかろうじて区別されているが、自転車は強引に詰め込まれ、平積みされて山になっている箇所もある。カゴにゴミを入れられているのもあれば、サドルを盗まれているものもある。ようやく自分の自転車のところまで来たが、前輪の部分に隣の自転車のペダルが食い込み、容易には取り出せない状態になっていた。足で蹴飛ばして強引に出そうとしたがうまくいかず、結局何台か動かして取り出す。加藤は向こうで待ちくたびれているだろう。


加藤は踏切を渡った所に立っていた。加藤の自転車は、私のよりもひと回り大きく、屈強そうに見えた。加藤が小柄だからそう見えるのだろう。全体がシルバーで、シャフト全体が熱を帯びているのがここまで伝わってくる。声をかけると、じゃあ行こうか、と素っ気なく言ってペダルを漕ぎ出した。


加藤の家は自転車で十分くらいのところにあった。途中の交差点までは私のルートと同じで、渡った所で裏道に入る。保育園を過ぎて坂を降りると、住宅街が広がり、その中のひとつが加藤の家だった。家の前の駐車場の隅に加藤は自転車を停め、私を玄関まで案内する。入り口には簡素な門が構えてある。門から玄関までは狭く、コンクリートの階段を二段上がると、もうドアの前だった。加藤は勢いよく開けると、私をそこで待たせ、小走りで奥へ消えて行った。加藤の脱いだ靴が、左右別々の方向を向いている。


玄関も狭い。加藤の黒いローファーの他には、靴が二足しか並んでなかったが、それでも窮屈そうだった。下駄箱の上には靴のクリームとキャッチャーミットが置かれている。反対側の壁には、大きな姿見が掛けられ、私の全身を写していた。なんだか気まずそうにしている。今ここで加藤の家族と出会ったらどんな顔をすればいいだろうか。


加藤が消えていった先へ目をやり、何か音がするか耳を澄ます。何も聞こえない。全体的に薄暗い。奥へ伸びて行く廊下は左側に二つのドアがあり、右側には階段があった。


ようやく奥から加藤がダンボールを抱えてやってくる。ダンボールの中にはモニターが入っていた。少し黄ばんでいる。それを置くと、さらにキーボードや、ケーブル類が入った紙袋を持ってきた。

「さ、運びましょうか」

と加藤は靴を履く。加藤は着替えていた。英語がプリントされたクリーム色のTシャツに、ジーンズのハーフパンツを履いている。

「安藤くんの家ってここからどれくらい?」

スニーカーの紐を結びながら、加藤が聞いてくる。

「うーん。十分か、十五分くらい? て一緒に来るつもりなの?」

「ていうか無理でしょ? こんなに重いの」

なんとか一人で運べない量でもないが、好意に甘えることにした。ダンボール箱を持って先に出て、それを自転車の籠に納める。結構な大きさなので、斜めにする必要があった。ハンドルを大袈裟に振って、安定具合を確かめる。加藤が後ろから「大丈夫?」と声をかけてきて「大丈夫」と大袈裟に振り返ろうとしたら、ハンドルが重さに負けて勢い良く回った。私が悲鳴を上げると、加藤は「どこから声出してるの」と笑った。


重いものをカゴに入れてるとは言え、普通にペダルを漕いで帰ることもできたが、念のため自転車を押して運ぶことになった。普段なら十分ほどの距離だが、歩くとなれば倍以上かかる。加藤に平気かと聞くと、特に予定はないから平気、と返ってきた。この暑い中、自転車を押して歩くのは平気かと聞いたつもりだったが、伝わってない。私の言い方が悪いのか、加藤が頭が既に茹だっているのか。いちいち訂正するのも面倒なので、そのまま何も言わなかった。


蝉の鳴き声が降り注ぐ中、ナメクジのような速度で歩いて行く。なるべく車通りの少ない道を選んで、並んで歩けるようにする。ハンドルを握る手に日差しが当たる。加藤の家までは颯爽と風を切っていたから、大して暑さも感じなかったが、歩くと、地面からも熱気が伝わり、ズボンの中で汗が流れた。加藤も赤い顔をしている。


「この道で学校が分かれちゃうんだよね」

国道の横断歩道を渡ってあと半分というところで加藤が言った。国道が学区の境界線となっている。加藤とは小・中学校とも別だった。

「ここが一組の佐藤さんの家でしょ?」

「”さん”がついたって事は女子だよね?」

「え? そこから? 本当に西中行ってたんだよね(笑)」

そこから加藤が話をリードし、自分の中学時代の話をした。バスケ部に入ったが、柄の入ったソックスを履いていたせいで、先輩たちに吊るし上げられたこと。一年生は白いソックスしか履いてはいけないという、暗黙だけどありがちなルールがあったのだ。周りを見て、そうじゃないかと思ったんだけど、お母さんが買ってきちゃったし、そんな派手じゃないから大丈夫だと思ったんだよね、と加藤は当時を振り返る。加藤は家族の話を楽しそうにする。


予想通り私の家に着くまでに三十分近くかかった。加藤を庭に待たせ、荷物を部屋まで運ぶ。閉め切った部屋には熱気が籠もっていたが、窓も開けずに再び外へ出た。加藤は自転車の向きを変え、帰る準備を整えていた。私も同じ様に向きを変え、今度は私が加藤と共に出かける準備をする。当然加藤は不思議そうな顔をしてこちらを見る。私はアイスでも食べない? と加藤を誘う。


すぐ近所の県道沿いのローソンで、アイスを買った。私はバニラのカップアイスで、加藤はカキ氷のアイスバーを選んだ。「お礼」と言って、加藤の分も支払った。それを持って、隣接する運動場へ行く。そこは主に野球をするためのグラウンドで、得点板やマウンドやバット立てがある。私たちは一塁側のベンチに座った。屋根があったが、プラスチックの座面は熱を持っている。金属製の柱は緑色のペンキが塗られていたが、所々めくれ、錆が浮いている。グラウンドには誰もいなかった。


私はアイスを板のスプーンですくいながら、小学生の頃、夏休みにここで野球大会をやったことを話した。四年生以上の子どもが集まって、字対抗のトーナメント戦を行う。私のところは熱心で、夏休みに入るとすぐに、毎朝六時から練習を行った。私は運動が得意ではなかったから、六年になってやっと先発メンバーになれた。それでも二度打席に打つと、交代させらる。コーチは怖い人で、何度もグラブの構え方を注意された。

「わたしたちの方はそんなのなかったな。やったのはラジオ体操くらい」

氷をゆっくりと、大事そうに舐めながら加藤が言った。

「ラジオ体操ってさ、最後まで行くと鉛筆もらえなかった?小さい消しゴムがついてるやつ」

「そうそう。ラジオ体操と言えば、あの消しゴム付きの鉛筆なんだよね。あれがさ、ちっとも消えないんだよね」

「え? 消えるよ。消しゴム忘れたときとかよく使ったもん」

「そうかな? あれは飾りでしょ? ていうかわたし、消しゴム忘れたことなかった」

加藤ははしゃぎながら言った。消えない消しゴムが面白いのだろう。私はとっくに食べ終わっていて、話をしながら、スプーンを手の中で折った。縦に二回折ると、それ以上折るのが難しくなった。仕方が無いのでささくれを取って、カップの中に放りこんでいった。何かしら手を動かしていないと、うまく喋れないような気がした。ささくれは、カップの底にへばりついた。話が一段落すると、加藤はアイスを舐めるのに集中した。舌が機械的に動き、氷の表面を少しずつ削り取っていく。もういい加減食べ終わらないと、棒から氷がこぼれ落ちてしまうが、それでもかぶりついたりしない。

「ずいぶん大事そうにに食べるんだね」

「だって急いで食べると、頭がきーんてしちゃうんだもん。それに、ご馳走になったんだし」

マウンド上で、風が砂を巻き上げている。はるか先に緑色のフェンスが見えた。フェンスは所々が朽ちて、でこぼこしている。加藤のアイスは残り三口という所だ。だいぶ溶けてきているが、不思議と氷が棒から滑り落ちることはない。きっとどこまでもつのか、わかっているのだろう。舐め終わったら何を話そうか。私はそんな事ばかり考えている。


私は気付かれないように、座っている位置をずらし、加藤に近づいた。制汗スプレーの匂いがする。家の奥でワープロを準備する合間に慌てて吹きかけたのだろうか。

「安藤君てさ、小説家になりたいの?」

いつのまにかアイスを舐め終わった加藤が、聞いてきた。

「わからない、考えたことないから」

別に格好つけてそう言ったわけではなかった。私は、働くということを真剣に考えたことはなかった。

「いいのが書けるといいね」

「うん。ワープロは夏休みが終わるまでには返すね」

「そんなの気にしないでもっと借りてていいよ、締め切りは来年でしょ?」

「わかった、ありがとう」

そう答えたが、私は夏休み中には仕上げるつもりでいる。返すときにはまたアイスをおごろうと思っている。

「安藤くんてさ、いつも書いた小説、越川君に見せてるの?」

唐突に加藤の口から越川が出てきた。私は思わず加藤の顔を見る。加藤もこちらを見ていて、思い切り目が合ってしまう。加藤は目をそらさない。一瞬嘘をついてしまおうかと思ったが、正直に話すことにした。高ニの時に初めて書いた時から、月に一回のペースで、越川にのみ見せていること。

「卒業制作も、もともと越川がやれって言ったんだよね」

「ふーん」

雲行きが怪しくなってきたのが、はっきりと分かる。私は次に出てくる言葉を待つことしかできない。フェンスの向こうに犬を散歩させている女の姿が見えた。遠目でよくわからないが、髪の長さから女と判断した。TシャツにハーフパンツというMAX気の抜けた出で立ちだ。どうしてこんな時に、遠くの風景が頭に入ってくるのかわからない。

「ていうか私さ、越川くんのこと、嫌いなんだ」

ある程度の年齢になれば、余程のことがない限り、誰かを嫌いとは言わない。普通は”苦手なんだよね”とか”よくわかんないんだよね”とか言ったりして、弁解の余地を残す。”嫌い”という単語が出るのは、言った相手に余程気を許しているか、その対象者が余程嫌いかのどちらかなのである。この場合は間違いなく後者だ。つまり越川と加藤は、過去に何かあったのだ。

「そうなの?ごめん」

「こっちこそごめん」

加藤はそのまま黙ってしまった。私は次にかけるべき言葉が思いつかない。「俺そんなに越川と仲よくないよ」と弁解しようかと思うが、中途半端に嘘をついても仕方がない気がした。私はさっきの犬を散歩させている女を目で追った。女と犬は曲がり角にさしかかっている。


そのとき左手に何かが当たった。見ると加藤の右手だった。加藤はベンチに手をつき、前へ投げ出した足の先を見つめている。体勢を変えた際に当たってしまったのだろうか。私は衝動的に加藤の手の上に自分の左手を重ね、握りしめた。自分の大胆さにびっくりしたが、今更引っ込めるわけにはいかない。加藤の手は熱くも冷たくもなかった。ただの柔らかい手の感触の塊だった。


加藤が驚いて私のことを見た。私はずっと犬と女を注視していたが、気配でそれはわかっていた。加藤は長い時間、私を見ていた。加藤も手をどけたりはしなかった。そしておそらく、私が顔を向けるのを待っていた。私が前を向いたままでいると、加藤は再び前を向き、口を開いた。

「わがまま言っていい?」

「なに?」

「卒制完成したらさ、一番最初に見せてくれない?私に。越川くんじゃなくて」

加藤の声は若干上ずっていた。

「面白くないかもしれないけどいい?」

「え?」

加藤が聞き返す。

「見せるよ、もちろん」

はっきりと大きな声で言い直した。まるで無理やり言わされているみたいになって、加藤が笑った。

「約束だからね」

加藤も真似して大きな声を出した。お互い変なテンションになって、最後は指切りげんまんをして別れた。一度手を重ねたせいか、小指を絡ますことには全く抵抗がなかった。生ぬるい風が背中に当たり、夕立の気配を感じた。

「頑張ってね」

加藤はそう言って、自転車にまたがって帰っていった。私は加藤の背中を見送った後、自転車には乗らず、押して帰った。暗くなり始めるまでには、まだ時間があった。


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