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越川の言った通り、加藤はワープロを所持していた。「お父さんが前に使ってたやつ」があるそうだ。

「確かにワープロの方が見た目がよくなるもんね」

諏訪と同じ事を言った。

「まあ俺がもっと字がきれいなら関係ないんだろうけど」

「関係なくないよ。やっぱワープロ使うと全然きれいだよ」

私が冗談で言ったことに、加藤は真面目に返してきた。

「でも使ったことないからなあ」

「そんなに難しくないよ。わからなきゃ教えてあげるよ」

「なんか意外。そんなに使いこなせるんだ?」

「失礼な。学校の資料とか作ってたんだよ?」

「じゃあわからなかったら家まで来てね」

「出張料は一回一万ね」

「高っ」

「じゃあアイスとかでいいよ」

極端なディスカウントに、私はどう返していいのかわからなくなってしまった。アイスをおごるくらいで来てくれるなら、本当に呼んでしまいそうになる。私は念のため、越川の名前は出さずに聞いた。加藤も「生徒会」とは言わなかった。


ワープロは次の土曜日の午後に取りに行くことになった。夏休み前の最後の土曜日である。それまでに加藤が念の為家族に相談したが、全く問題ないそうだ。父親は、今はパソコンを使用していて、むしろそっちを譲って、代わりに最新モデル購入を目論んだが、母親に即座に却下された。そんなエピソードを楽しそうに話してくれた。加藤の家は、私の帰り道から外れていたが、大体の方角は同じだった。


土曜日は朝こそ涼しかったが、午後から一気に気温が上昇するとのことだった。平日と違うお天気キャスターが、たどたどしい口調で報告する。電車がやってくる時間も異なり、車両も二つ少ない。平日気分でいると、遅刻しそうになる。でもその日は朝食を済ませ、歯を磨いた後も、まだ時間に余裕があった。自転車を庭に出し、タイヤに空気を入れた。駅は家から20分ほどのところにある。少し動いたら汗ばんだ。荷物を籠に放りこむと、小学生の列が家の前を通った。先頭の男子が班旗を振り回して、道端の草をかき回している。空気入れをガレージに戻す際に、傍らに生えていたおしろい花に足を突っ込み、ズボンが朝露に濡れた。わざと大きな声で悲鳴をあげる。加藤の家を訪問する事が、今日確実に起こるイベントだとは思えなかった。


四時間目の政治経済の授業で、教師が突然、教科書を叩きつけた。期末テストの答案を返し、問題の解説をしている時だった。てめえ真面目に聞く気があるんかよ、と怒鳴りつけ、クラス内が凍りついた。政治経済の授業は相変わらず、退屈の殿堂に入るくらいだったので、寝ている者も多くいる。私も小説こそ書いていなかったが、上の空で、一体どんな流れで教師が怒り出したのか把握できていなかった。まさか私個人にブチ切れてるとは思えなかったが、咄嗟に言い訳の二、三を考えた。やがて教壇から降りて、教師は後ろの席へ向かった。皆藤たちの席だ。皆藤は、聞いてるじゃねえかよ、と声を荒らげて反論した。声の調子はこの場を納める和平目的ではなく、挑発的だ。教師に暴力を振るわせて退職に追い込みたいのか。おそらくそんなしたたかさはないだろう。単に大声で責められたから責め返す。条件反射のようなものだ。


皆藤たちは、後ろでトランプでもしていたのだろう。周りの取り巻きたちが、こそこそと何かを片付けている。教師は皆藤の所まで詰め寄った。完全に首謀者を皆藤と決めつけ、わき目も振らない。金髪の女子が金切り声を上げ、抗議する。それも私には過剰な反応に見える。教師は手を出さず、そのまま向きを変えて前へ戻って行った。皆藤たちも後ろ姿を罵倒する事はなかった。そして授業を再開した。


授業が終わると、すぐに帰ろうと声をかけたが、加藤は食堂で昼食を済ませてからにしたいと言った。私は、昼食は家でとるつもりだったが、そうしなければならない理由はなかったので、二人で食堂へ向かうことにした。教室を出る時に、越川の前を通ったが特に声はかけられなかった。私も越川なんて初めから存在しない風を装って、通り過ぎた。


考えてみると、食事はもちろん、加藤と並んで歩くことすら初めてだった。加藤は私の横で、早く夏休みになんないかなあ、なんて言っている。背負った茶色のリュックに、白い熊のキーホルダーが揺れている。うちのクラスのヤンキーがこの光景を見たら、「お前、ついに加藤とやったのか?」とからかうだろう。食堂へ向かう道すがら、私はそう言われたらどう答えようか考えた。ムキになって否定すれば、相手を喜ばすだけである。「ああ、ついムラムラきちまってな」とでも言えばいいだろうか。三年になってクラスが同じになったせいか、加藤=サセコの話はほとんど聞かなくなった。私も一切耳を貸さないようにしている。


食堂は土曜という事でいつもより空いていた。 天井には扇風機がついていて、定期的に頭に風があたる。こんなのただの気休めにすぎない。予報通り一気に暑くなった。開け放たれた窓から夏の光と蝉の鳴き声が存分に入り込んでくる。


私と加藤は奥のテーブルの端に、向かい合って座っていた。薄汚れたテーブルの表面は、かろうじて蛍光灯の光を反射している。席のすぐそばに膳を下げるカウンターで、食事を終えた生徒が、加藤の後ろを通り、落ち着かない。これではまともに会話できないが、実は何を喋っていいのかわからないからちょうど良かった。さっきの皆藤と教師の喧嘩の話でもしようと思ったが、二つ先の席に当の教師がいたため、控えねばならなかった。教師は先ほどの出来事は完全に忘れたように生姜焼きを頬張っていた。授業が終わったあと延々と文句を言っていた皆藤たちとは対象的だ。


加藤は、うどんを口に運ぶことに集中している。つゆが飛ばないように注意しているのか、動きは緩慢だ。すぼめた唇が膨らみ、その中へ白い麺が吸い込まれていく。伏し目がちになって、まつ毛が際立つ。前髪は相変わらず癖っ毛で、長く揃ったまつ毛とは対象的だ。多分本人は相当気にしているだろう。毎朝不機嫌そうに鏡に向かう姿が目に浮かぶ。耳にかけた髪が扇風機の風になびく。そういえば向かい合わせで座るのは初めてだ。


「久しぶり、元気?」

食べ終わったところで、一人の男が加藤に声をかけた。加藤が振り向く。髪を短く刈り込み、肌は浅黒く日焼けをしている。爽やかな外見から運動部と判断した。運動部の男はだいたい爽やかだ。男は食べ終わった食器を下げにきたところだった。


私は馴れ馴れしく話す浅黒野球部の声を、注意深く聞いた。聞き耳を立てていると思われるのは癪なので、時折コップを口に運び、無関心さをアピールした。加藤は声が小さく、喋る内容はほとんど聞こえない。横顔の口元が定期的にゆるみ、加藤はそこに手をやる。笑ったときに口に手をやるのが加藤の癖だ。加藤が異性とこんなに親しく話をするなんて、かなり珍しい。「久しぶり」と声をかけたのだから、以前親交があったに違いない。ひょっとしたら、同じ中学で生徒会をしていたのかもしれない。当然生徒会長は越川だろう。越川は、きっと周りに依頼されて、渋々会長を引き受けたに違いない。

「生徒会なんて面倒くせーよ」

なんて言いながら、でもいざ就任したら愚痴ひとつこぼさずに勤め上げるのだろう。職員室禁煙化を提案し、先頭に立って教師と議論したのかもしれない。


越川がこの場にいれば、浅黒のこともみんな教えてもらえるが、食堂内に姿は見えない。いたらついでに加藤と何があったのか聞きたくなる。今なら躊躇なく聞けそうな気がする。


「今の人友達?」

男が去ったあと、私は加藤に聞いてみた。

「細貝君て言うんだけどさ、前同じクラスだったんだ。野球部の人」

水を一口飲みながら加藤は答えた。野球部か。この後炎天下で練習してぶっ倒れることを祈る。加藤の真似をして私も水を飲むが、すでに空だ。特に喉は渇いていない。それにしても細貝という名前に聞き覚えがある。


すぐに思い当たった。野球部の細貝と言えば、加藤=サセ子の話をする時に、かなりの頻度で出てくる名前だ。朝一番に女子トイレの個室でやったとか、細貝の性器はでかかったが加藤はガバガバだったから問題なかったとか、噂にバリエーションが多く、私たちを楽しませてくれた。その、ある意味伝説的な人物が、さっきまで目の前にいた。まさか実在するとは思わなかった。そんな間柄なのに、こんなにあからさまに親しく談笑するものなのか。やはり噂は事実無根で、単に細貝と加藤が仲良いを妬まれた末に、広められた嘘なのかもしれない。そう思っても私の心はちっとも晴れない。私の頭の中は今、加藤と細貝のセックスでいっぱいだ。

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