第4話 喰らう




 その日から、俺と清水は頻繁に会うようになった。いや、初めこそ月に数回だった気がする。が、新鮮な文字の味を覚えた俺はどんどん貪欲になっていった。


「いっそのことご自分で書けばいいのでは?」


 自給自足ってご存知ですか? そう、清水はじっとりとした目で俺を見つめる。

 昼過ぎに突然電話で呼び出され、学会が開催されている横浜近くのホテルまで来させられたのだから、彼女の怒りはもっともだ。


「俺は書くのはからっきしなんです」

「そんなに本ばっかり読んでるのに?」

「読んでるんじゃない、食ってるんだ。大食漢だからって料理が上手いとは限らない」

「食べるの好きな人は作るのも上手いことが多いですけどね」

「少なくとも俺には当て嵌らないですね」

「まあ、いいですけど。人から頼りにされるのって存外悪くない気分ですし。勉強も行き詰まってたし」

「また何か資格取るんですか」

「仕事で使える便利なやつを、少しばかり」


 横浜の港を一望できるホテル。その最上階の鉄板焼き屋で俺たちは向かい合っていた。


「あと五分待ってください。これ食べ終わったら考えますから」

「いや、ゆっくりしててください」

「急ぎますよ。お腹がすいてるって、人間にとってすごく悲しい状態です」


 人間。人間なのだろうか、俺は。

 思春期の頃に放棄したはずの苦い想いをワインと一緒にのみくだす。こんな思考、胃酸で溶かされてしまえばいい。

 と、視界のはしで、髪をアップにした清水の、細いうなじにかかる後れ毛が揺れるのが目に入った。ここはホテルの最上階。窓など開いていようはずもない。


 清水の頭から、耳の後ろから、文字はとめどなく溢れ出る。意味を成さない短い文字の羅列。それを目で追いながら、口を開いた。


 あまい。肉なんかよりよっぽど動物的甘さを秘めた文字を噛み締めながら、目の前で満足げに食事を続けている清水を見やる。腹が満たされていく感覚に、俺は緩く目を細めた――。


「……え、それで終わり? 二人で仲良く帰って来たんすか!?」


 そんな夜から更に二日を過ぎた午前九時。外来受付も始まらんという忙しい時間帯に、千草は大きな声を上げた。俺はそんなに変なことを話しただろうか。


「中学生じゃないんすよ!?」

「当日に帰れるならその方がいいでしょう」

「ハナ先生は!?」

「俺は次の日に聞きたい講演があったんで」

「横浜中華街デートとか!」

「意味がわかりません」

「せめて泊まったりしないっすか、普通!?」

「しませんよ。恋人じゃあるまいし」


 ため息をついて手を伸ばす。カルテの重みがなかなかやってこない。振り返れば、千草が噛み潰した苦虫で鼻うがいでもしているような顔をしていた。


「なんなんすか。先生、なんなんすか?」

「千草さんは頭の中のお花畑に除草剤を撒いた方がいいですね」

「ハナ先生は最近いい柔軟剤使ってますね、顔面に」

「それはどうも」


 そんな会話から、更に時は流れて数ヶ月。月に数回会っていたのが隔週になり、いつしか俺と清水は毎週会うようになっていた。


 清水が俺に文字を食わせる代わりに、俺は清水に飯を食わせる。そういう関係がなんとなく成立していたのに、最近の清水は「身体は普通の人間なんですから」と俺にまで食事――、ここで言う「食事」とは普通の人間がする食事である――、をしろと口うるさい。

 胃もたれしそうだから今日はヘルシー且つ家庭的に行きましょう、とか、さすがにちょっと太って来ました、とか。そんなことを言いながら俺たちは互いの家を行き来するようにまでなった。もちろん食事の為だけに。


 そう、俺たちはそれなりに上手く需要と供給というやつを成り立たせていたのである。

 だから、その日は本当に驚いた。仕事帰りに部屋に来る予定だった清水から、『今日は行けません』という簡素なメッセージが届いていたのだから。


「おゴウちゃん、なんて?」

「今日は来られないそうです」

「ハナ先生、なんかやらかしたんすか」

「……いや、」


 最後に会った日のことを思い出す。特に問題があったようには思わない。

『何かありました?』と打ち込んで、送信する。トーク画面を見ていたであろうスピードで既読がつき、『なんでもないです』とすぐにメッセージが飛んできた。『すいません、少し体調悪くて』と続く。


 隣から俺のスマホを覗き込んでいた千草が、画面に目をやったまま口を開いた。


「ハナ先生、これ見て今なんて思った?」

「打つのが早い」

「いや違うでしょ。心配するとこでしょ」

「季節の変わり目ですからね」

「そーじゃないでしょ!」


 俺だって曲がりなりにも医者である。体調不良の人間を見れば気の毒だと思うし、力になってやりたいと思う。だが、今日は何かが違っていた。軽い動悸と発汗。いまいち思考がまとまらない。


「ほら、早く打って。何か要るものあるかって」

「体調悪い時に部屋に来られるのイヤじゃないですか?」

「何年ドクターやってんすか! 体調悪い時ほど心細くなるのが普通っす!」

「いや、でも。未婚の女性の家に男が、」

「今更すぎるんっすよねえその葛藤は!」


 貸して。そう言って千草は俺の手からスマホを奪い取り、さっさとメッセージを送ってしまう。俺はただ、呆然とそれを見つめたまま思案する。今更すぎる葛藤を、なぜ、今、自分は抱いたのか。


 答えは簡単だった。俺は自分を人間だと思っていない。それと同じくらい、清水ゴウのことも人間だと思っていなかったのだ。頭から文字を溢れさせる奇妙な生き物、そういう認識をしていたのだろう。

 だからこそ、清水が体調を崩すこともある人間だという、その当たり前の事実にこんなにも動揺しているに違いない。


「ハイ、さっさとお粥とか買ってお江の方様んとこ行って! ハナ先生、ツラだけはいいんっすから少女漫画みたいに見えますよ!」

「清水さんから『お気遣いなく』って返信来てるんですけど」

「はあ!? 可愛げのねぇ女だなゴウ!」


 無視っすよ、無視!

 千草に言われるがまま俺は病院を出て、真っ直ぐに駅へと向かう。そう遠くもない距離なのでタクシーを使おうかとも思ったが、前にそうした時えらく清水に怒られたことを思い出して大人しく改札を抜けた。


 たった数駅がひどく遠く思えた。車窓を、日を落とした街の景色が流れていく。清水は今日、仕事を休んだのだろうか。熱は。症状は。最初に聞くべきことをぐるぐると考えているうちに、聞き慣れた駅名がアナウンスされる。

 電車を降り、コンビニで目に付いたものをてきとうに買い込んだ。薬は自分用に置いているものをいくつか持ってきたから大丈夫だ。


 清水の家は駅から五分の場所にある。片田舎だからこそ得られた立地だと前に笑っていた。


 何度か足を運んだ、三階建てのアパート。オートロック無し、一階に位置する彼女の部屋には最初こそ顔をしかめたが、こうして俺が出入りしていれば女の一人暮らしだとは思うまい。

 103号室。手書きの表札を見ながらインターフォンを鳴らす。


 ピンポーン。部屋の中はしんと静まり返っている。寝ているのなら悪いことをしているな、と思いながらもう一度。ピンポーン。間抜けな音が響くばかりで反応はない。

寝ているか。まぁそうだろうな、俺にも断りの連絡がついているわけだし。


 荷物だけでも置いていくか、と、ドアノブにコンビニのレジ袋を下げようとするも、慣れないせいでノブを引っ掛けてしまう。

 カチャ。軽い音を立てて開いたドアに、思わず顔が歪んだ。


 何やってんだ、あのひとは。不用心にもほどがあるだろう。


「清水さん! 花巻です、入りますよ!」


 病人だろうが何だろうが、戸締りだけはしっかりしろ。一階に住んでいる自覚があるのか。湧き上がる苛立ちを抑え切れぬまま部屋のドアを開けて、俺は目を見張った。

 ドアの向こう。見慣れたはずの部屋の様子が、あまりにもおかしかったからだ。


 薄暗い部屋の中は淀んだ空気で満ちていた。喉に張り付くようなそれに唇が乾く。ヘドロだ。身体にまとわりつく空気に、平衡感覚が無くなる。空気が、淀んだ沼の底みたいに、揺らいでいる。


 その部屋には文字が溢れかえっていた。


「……清水さん。花巻です」


 靴を脱ぎ、文字で淀んだ部屋の中へと足を踏み入れる。清水江は、ベッドで横になるでもなく、部屋の真ん中に置かれたちゃちなテーブルに突っ伏していた。


「の……、甘美な……を、」

「清水さん。体調、どうですか」

「こ……ど、でき……か、……て、」

「清水さん」


 いつかの夜みたいに、俺が食ったことで『消えた』はずの言葉を繰り返す清水の髪が揺れる。とめどなく溢れ出る文字に酔いそうになって、ぐ、と息を詰めた。


「清水さん、少し休んだ方がいい。横になるだけでも、」

「ダメです」

「え……?」

「私に休んでる暇なんて、ないんです」


 私、全然ダメなんです。そう言って女がゆらりと顔を上げる。涙で濡れた頬は血の気を失い、まるで死人のようだった。定まらない視線。息を飲む俺の前で、清水は責め立てられるかのように言葉を吐き出す。

 口から、髪から。血を吐くみたいに。


「私、全然ダメなんです。仕事も、何もかも。わかってるんです。私なりに努力してるつもりなんです。でもダメなんです。私の努力が足りないのもわかってるんです。みんな頑張ってるのもつらいのもわかってるんです。私だけが我慢出来ないなんてただの甘えだってこともわかってるんです。ごめんなさい」

「…………」

「ごめんなさい。頑張れなくてごめんなさい。嫌い……イヤだ、嫌い、嫌い、嫌い」


 誰が誰を、なんて。聞くまでもない。

 心を傷付けられた者は臆病になる。一見、凶暴化したように見える人間も、結局は怖いのだ。古い傷が開くのを恐れる。新たな傷をつけられることに怯える。だから、先回りして自分で自分に傷をつける。


 わかってます、わかってるんです。息も絶え絶え、そう繰り返す清水に胸が締め付けられると同時に、腹の底から仄暗い怒りがこみ上げた。

 そんな風に自傷を繰り返すようになるまで、誰があなたを傷付けた?


「清水さん、あなたは十分努力してますよ」

「努力だけなら誰でも出来ます」

「そんなことない、」

「もう、頑張れない。私、これ以上は、もう無理です。頑張れない」


 死にたい。


 静かな声でそう言って、女は顔を覆う。堰を切ったように部屋の中の文字が渦巻いて、すとんとひとつに落ち着いた。


「死にたい」


 蠢く文字を見つめたまま、俺は思い出していた。初めて会った日の夜を。つんざくような音の響く遮断機の傍ら、雑居ビルの片隅で膝を抱えていた女が溢れさせていた文字を。


『その甘美な声を断ることなど出来ようか。甘く誘う鉄の悲鳴。この痛みも叫びも、全部飲み込んでくれればいいのに』


 己が困難な状況に陥ったとき、人間はどうするか。受け入れるか、拒絶するか。それは強い人間だからこそできることだ。弱い人間は、知らぬふりをする。それが楽だから。

 現実から目を背け、酒を喰らい、ギャンブルや過食で脳汁を溢れさせ、見当違いな愚痴を吐いて本質から目を逸らす。そうして、問題が風化するのを待つのである。


 決してそれを責める気はない。人として生きてきた以上、俺だってそういう類の経験を繰り返してきた。

 それがどうだ。この女はその困難を受け入れるどころか、わざわざ名前までつけてやる。


 名前をつけるということは、噛み砕くということだ。噛み、味わい、飲み込んで、消化しなければ名前などつけようもない。


「知らないふりをすればいいのに。考えずにいればいいんです。言葉になんてせず」

「知りません、そんなの。考えずにはいられないんです。そうしなきゃ、生きてても死んでても同じだから。中途半端にぶら下がって、前にも後ろにも進めない。まるで文字の奴隷だわ」


 静かな声で、女は言う。涙を流す。

 不平不満を押し出すみたいに喚く子供の声とまるで違う、呆然と流れ出る雫に喉の奥が苦しくなった。痛い。なんだ、これは。胸がきしんで音を立てる。


 なんて言えばいい。なんて言ったら、何を伝えれば、どんな言葉を紡げばあなたを少しでも楽にしてやれる。子供みたいに泣かせてやれる? わからない。

 頭の中を、文字が、感情が、ひしめき合う。もしかしたら、今の俺は清水みたいに文字を溢れさせているのかもしれない。そう思うくらいに、頭がいっぱいだった。


 はく、と震えた唇。こぼれ落ちたのは「好きだ」なんていう陳腐な言葉だった。


「あなたを尊敬しています。あなたの生き方が好きだ。きみのことを知りたい。喜びも、苦しみも。力になりたいんだ、きみの」

「…………」


 清水は何も言わなかった。二度、三度。まつげが上下する。ころんとこぼれ落ちた涙が美しくて、ぐらりと頭が揺れた。ああ、なんだこの感じ。動悸と発汗。身体に熱がこもる。

 もう、言葉は出てこなかった。頭の中が真っ白だ。


「……変なひと」


 ああ、瞬き一つで食い尽くされた。そう、思った。





 


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