第3話 出会う
俺のこの体質は、父方の祖母から受け継いだものだった。大多数の人間にはない、異常な食欲。文字を食らうという、この特異な体質のことである。
母いわく、俺は大層よく食べる子供だったらしい。いくら食わせても腹が減ったと泣き喚き、過食による消化不良を起こし嘔吐を繰り返しながら、それでも空腹を訴える俺を、両親は祖母の元へと連れて行った。
東北の田舎、電車もバスもほとんど走っていない辺鄙な村に祖母は一人で住んでいた。小さな身体が埋もれんばかりの本と文字に囲まれて、その美しい化け物は生きていた。
俺や祖母が食った文字は綺麗さっぱり消えてしまう。紙の上からも、書いた者の頭の中からも。だから祖母も俺も、食うのは『作者が故人となっている書物』だけと決めていた。それが俺たち化け物に出来る、唯一の人間との共存方法だと思っていたのだ。俺も、今は亡き祖母も。
それが、どうだ。あの女は何なんだ。思い出すだけで口の中をじわりと唾液が満たす。
頭から、耳から、首筋から。文字を溢れさせていた酔っ払い。そこに無いはずの文字が見えるだなんていう経験は今までなかった。祖母から聞いたこともなかった。
でも、あの夜、俺は確かに食ったのだ。あの女の頭から溢れ出ていた文字の羅列を。
どんなに美味い料理でも、毎日食べていればいつかは飽きる。人間だってそうだろう。俺たちだっておんなじだ。
太宰に芥川に夏目漱石。谷崎潤一郎に、川端康成。たまに江戸川乱歩を挟んでみたところで、ルーチンに変わりはない。
つまるところ、俺は『生きた文字』を初めて食ったのだ。それは荒削りで野暮ったく、大味で、決して喜んで食えたものではなかったが、それでも新鮮さに勝るものなどない。
また食いたい。あれを。あの味を。
頭の中はそんな欲望でいっぱいになっていた。欲のまま食い荒らす化け物にだけは成り果てたくない、その理性で自分を抑えつけるほかないほどに。
だから俺は飛びついた。あの夜、薄暗いビルの片隅で膝を抱えていた女からの着信に。
「
「キラキラネームみたいですよね」
「いえ。もしかして四男さんです?」
女を部屋まで送り届けた翌日、屍のように眠る俺のスマホを一件の着信が震わせた。悲しきかな、研修医時代の名残で着信には三秒で目が覚めるくせがついている。
起き抜けの声で返事をする俺に、
お世辞にも美味しいとは言い難い味の珈琲を啜ってから、口を開く。
「残念ながら長男です。姉が三人居ますが」
「でしょうね。テトラですもんね」
「そういうあなたは三姉妹の末ですか」
「一人っ子です。浅井長政関係ないです」
なるほど、多少は本を読むらしい。いや、社会科の授業で習うものだったか。教科書を思い出そうにも、遠い記憶に味はない。
清水ゴウは普通の女だった。近くの会社に勤める、なんの変哲もない会社員。年齢は千草とそう変わらないだろう。
身長は低くも高くもなく、肩まで伸ばした髪を後ろでひとつにまとめている。目だけがやたら綺麗に見えるのは、視力が低いからか。時折、目を細めて何かを見ているのが目に付いた。
「何か召し上がられますか?」
「いや、結構」
「夕食どきにお呼びだてしてすいません。お医者さまが行かれるようなお店でご馳走するほどの甲斐性はないですけど、よかったらこの後、私がよく行く――、」
「食事はしても意味がないんです」
俺の言葉に、清水ゴウは目を瞬かせる。一度、二度。髪の間から文字が溢れて来ないかと期待したが、出て来たのは清水の「はぁ」なんていう訝しげな声だけだった。
「何か本を持っていませんか」
「本、ですか……? 東野圭吾の新刊なら」
「作家がまだ生きてる。ダメだ」
「はあ?」
今度こそ、清水は顔を歪める。
小さく息を吐いて、俺は隣のテーブルへと目をやった。数分前まで大学生と思しき男が座っていた席だ。グラスから滴った水がまるく残っている。その水で湿ったレシートをつまんで、清水へと印刷面を向けた。
「なんて書いてありますか」
「ええと、カフェラテのMサイズとチーズケーキです。税込744円」
「見ててください」
そう告げてから、頭の中にある文字の口を開く。……薄っぺらい味だ。そのくせどこか焦げ臭くて顔が歪む。
すっかり白紙になったレシートの前で、清水ゴウは呆然と俺と紙とを見比べた。
「今……なに、を……?」
「食ったんです。文字を」
「文字を、食べる……?」
無意識だろう、薄い笑顔を浮かべたまま顔を引きつらせる清水に、俺は自分の体質についての話をした。
子供の頃の話。祖母の話。文字の口を閉じてさえいれば、食わずに読むことも可能であること。食ってしまえば、それは綺麗さっぱり消えてしまうことも。
「……食べないで読むことも出来るんですね」
「でなければこの世から文字が消えますよ。うちの病院はまだ紙カルテですし、俺は仕事になりません。いくら目の前に美味そうな肉があったとしても、それが他人の物や売り物なら所構わず食う人間なんてそうそう居ないでしょう。俺たちだって同じです。ただ、自分でもずっと、紙に印刷された文字しか食えないんだと思っていました」
「液晶画面とかじゃダメってことですね?」
「ええ。それから、人の思考も」
そう、食えないと思っていたのだ。ずっと。生きた文字を食うことなど一生できないと思って諦めていた。あの夜までは。
「こんな化け物相手にでも、あなたにまだ恩返しがしたいという気持ちがあるならお願いしたい」
「……何をでしょうか」
「あなたの頭の中の文字を食わせてください」
自分で言っておいてなんだが、了承されるだなんて微塵も思っていなかった。そもそも、この話を信じてもらえるとも思っていない。
こんなことを話してくる相手を「気味が悪い」と思わないのは、血の責がある家族と、頭のおかしな看護師くらいだと思っていた――千草ひとみの場合、話したというより摘み食いがバレた、と言った方が正しいが――。
それなのに、目の前の女は言ったのだ。「そんなことでいいなら」と、けろりとした顔で。
「……いいんですか。頭の中、見られるんですよ」
「思い浮かべたことだけでしょ?」
「消えるんですよ。俺に食われた分の文字は」
「構いません。文字が溢れてパンクするよりずっとマシです」
清水ゴウは続けて言った。私は昔から空想癖がひどいのだ、と。
「大人になったら治るって言われ続けて二十年。まだ治る兆しはありませんし、学生の頃は時間がいくらでもあったからアウトプットすることも出来た。今や立派な社畜です。吐き出す場所もなくて、文字が頭の中をぐるぐるまわって、内側から破裂しそうになる。先日は本当に助かりました。酔いもあってか、頭痛くて死ぬかと思ってたんで」
「アウトプットすればいいでしょう。今こうしている時間があるなら」
「時間があるから書けるってもんでもないんですよね、不思議と。書きたくなるのって大抵仕事中なんです。素人の物書きにアンケート取ったら八割はそう答えるんじゃないかな」
素人の物書き。やはり清水もそういうものに憧れているのだろう、と思った。
溢れ出した文字は荒削りではあったが、やはり一般的な書類の文面とは違っていた。言葉を並べることに慣れている人間の文字、というか。
「そういう一時的な記憶の話じゃないんですよ。本当の意味で消えるんだ」
「いいんです。頭が破裂するよりはマシ」
「小説家になりたいんじゃないんですか」
「ええ、昔はなりたかったかも。でももう、無謀な夢を見るような歳でもないんです」
そう、清水が笑った瞬間、ふわりとその前髪が揺れた。一つに束ねた髪から染み出した文字は、溶けた氷で薄くなったカフェオレみたいな、寂しい味がした。
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