第7話 セーフティ・オブ・ザ・リリィ

 ナタンとガイストが激突した日の深夜。


 リリウムはガイストに連れられて、しんと静まりかえったジョギングコースにいた。ナタンに勝つために努力する――と誓ったリリウムは、「ナタンに勝つために」とガイストに奨められた鍛錬をはじめたのだ。


 ただ……いや、誓った、誓ったけど……これは、違うと思う……。ついガイストの気迫に圧されてはじめてしまったけど、ぜったいに見当違いの努力だ。


 リリウムはかれこれ一時間近く走っていた。全身汗だくでパンツまでぐしょぐしょになりながらランニングをしていた。酸欠でちかちかする視界のなか、もはや走っているとは言えないくらいの亀の歩みであるが必死に足を動かしている。


「はぁ……ひぃ……はぁ……ふぅ……、ガイスト……、ガイ、スト……! ちょ……、ちょっと……まって……! はぁ……はぁ」


「なんだ?」


 リリウムと並んでランニングをするガイストは息ひとつ切らしていない。それどころか汗すらかいていない。ホムンクルスの機人族は人族とほとんど変わらない構造をしているため、お腹は減るし、睡眠も摂るし、もちろん走れば疲れる。ガイストはあきらかに異常な機人族だった。

 異常と言えば、ランニングをしろなんてリリウムに命じるのも異常な行動だ。

 やっぱりインストールにミスった影響でバグっているんじゃないかしら、と疲れ切った思考で考えていた。でも、この無意味な疲労にはきっと意味があるんだろうと信じて尋ねてみる。


「……はぁ……はぁ、こ……、このランニング……何の意味が……あるの……? ナタンに、勝つには……けほっ、オスクリダットを……グラディアトルの戦闘訓練が……はぁ、必要なのに……」


「オスクリダット……きさまの制作した機械仕掛けの鎧か。アレは優秀にして完璧。ミスがなければ正しく動くものだ。変わらなければいけないのは、きさま自身。そのための下準備だ」


「そ、そう……そんな凄かった、かな……」


 父と母を亡くして以来、誰からも何からも褒められたことなどなかった。手放しで褒められると口元がにやけるくらいには嬉しい。


「――って、わ、……私が、変わる?」


 ガイストの不穏な言葉尻に気がついてしゅんと我に返る。


「そうだ。……そろそろ頃合いかも知れんな。止まれ……座るなよ、そのまま立っていろ」


「えぇ……っ……はぁ、はぁ……」


 ふくらはぎはビクビクと震えていまにも崩れ落ちそうになるくらいに疲れているのに、立っていろなんて……辛すぎる。無意識に膝をつきそうなリリウムを繋ぎとめるようにガイストが手を取る。

 ガイストはじぃっとリリウムの掌を見つめていた。わけのわからないガイストの行動に不信を感じながらも黙ってされるがままになっていた。


「……いったい、なにを、したいの……?」


「きさまには魔闘術を体得してもらう」


「ま、……まとう、じゅつ……ガイストが、つかってた……? でも、なんで……? 私、運動は……ぜんぜん、ダメ、だよ……」


「魔闘術は戦うための技術ではない。オレは戦いに応用することで格闘術と呼べるまでに昇華させたが、本当は魔力の流れをコントロールして身体を正常に保つための医療施術だ」


「う、うん……それは、いいけど。……いま、こんなことしてる、場合じゃ……」


 ナタンの不正をねじ伏せるくらいの圧倒的な勝利で試験を突破するためには、グラディアトルの改修を急がなければいけない。まだ改修の方向性が見えていないから一生懸命に頭を捻らないといけない。それなのに、なんでこんな無駄な時間を割かなければいけないのか――ガイストのやりたいことが意味不明だ。

 リリウムの焦りを見抜くかのようにガイストが鷹揚に構える。


「聞け、このまま試験を受けても落第するぞ」


「だから……オスクリダットを……」


「オスクリダットを改修するだけでは解決にならん。試験結果を改竄されてしまえば意味がないんだぞ」


「んん……それは、そうだけど……他に、方法なんて……」


「方法はある、魔術を使えるようになれ。そのためには魔闘術が必要だ」


「魔術……っ!?」


 考えたこともないような提案を投げつけられてリリウムは素っ頓狂な声を上げてしまった。魔術を使えるようになれ、なんて生まれてから数回しか言われたことがない。


「そんなの……ぜったい、ムリ。私は、過適性症候群、だから……」


「知っている。だが、きさまの病は魔闘術で制御できる」


「そんなの、信じられない……」


 純魔素イーサ・ピュアの過適性症候群は不治の病だ。何人もの名医に診察してもらったし、医者嫌いになるくらい病院にも通った。でも治せなかった。この世界の最先端の医療技術でも治癒できない病を、どうして古代の戦士であるガイストが治療できるというのか。


 それに、――魔術を使うなんて、考えるだけで身体の震えが止まらなくなる。


 純魔素イーサ・ピュアの過適性症候群を発症している者が魔術を使ってしまうと、消費する魔力のコントロールができなくて暴発を引き起こす。リリウムは特に消費する魔力が大きいため魔術の使用は厳禁とされていた。

 幼少の頃、魔術を暴発させて屋敷を半壊させてしまった記憶はいまでも鮮明に思いだせる。

 真っ白に埋め尽くす閃光。

 崩れ落ちる屋敷の轟音。

 駆け寄る父の姿。

 上半身の千切れた機人族の残骸。

 幸運にもケガはなかったものの、あの頃のリリウムでさえ広大なお屋敷を半分吹き飛ばして機人族のメイドたちを幾人も消滅させてしまったのだ。


 大きくなったリリウムが魔術を使って暴発させてしまったらどんな激甚な被害が発生するか――。


 指先の震えを感じたのか、ガイストは温もりを与えるように両手で包み込む。


「怖れるな、……マオウもまた同じ病に苦しんでいた。だが、克服した。きさまにもできるはずだ」


「そんなこと、言われても……しんじられないっ」


「ならば、可能性を見せてやろう」


「かのう、せい……?」


「魔闘術はこういうこともできる」


 ガイストはリリウムの頬に手を添える。ふわっと女の子の香りがしたかと思うと、虹彩が見えるほどの近さで金髪の美少女ガイストの顔が迫っていた。


「えぇ……?」


 次の瞬間には唇を塞がれていた。


「……んむぅ!? ……んんんん――!!!!!?」


 弾力を確かめるように唇が吸いついてきたかと思うと、やわらかく差し込まれた舌がリリウムの舌先を絡めとる。


 き、き、き、キ、キス――っ!? し、舌ぁぁぁ――!!!!? な、な、な、――っ!? 吸われてる――、身体の奥から、魔力が……吸われてちゃってる……っ!?


 あまりの衝撃的な出来事にガイストを突き飛ばそうとするも、がっちりと頭を押さえられていて、非力なリリウムの腕力では引き剥がせない。きょときょとと目だけを動かせば、眼前に整った金髪の美少女ガイストの顔がある。情緒の欠片もなく無感情な瞳が瞬いており、恥ずかしさのあまり明後日の方向に目をそらす。身体が火の塊になったかのように熱くなってくる。


 永遠にも感じられた息苦しい時間を経て、ようやく金髪の美少女ガイストの唇が糸を引いて離れた。


「よし……」


「――ぷはっ……! へ、……へんたい……っ!!!」


 とりあえず、ポカリと一発殴りつけた。グーをガイストの左頬にめり込ませた。

 乙女の唇を乱暴に奪っておいて、「よし」とは。「よし」ってなんだ。言うことはそれだけか。


「痛いぞ」


 渾身の一撃なのにガイストは何の痛痒も感じていないようで……余計に腹が立つ。なんとかこの怒りを一握りでもわからせてやりたい一心で、右頬にもグーパンチを決めてやると思って、拳を振りかぶった。


「…………いでよ、隷属する黒衣たちシャドウスレーブ


 ガイストは突然、魔術を詠唱した。


「な……っ!?」


 リリウムのへろへろの左拳ストレートは、魔術で呼び出された黒い人影に受け止められた。そして、あっという間に腕をねじりあげられてそのまま地面に押し倒されてしまった。

 ぐりり、と関節が嫌な音を立てた。


「ぃ――!? い、っ……、いた、いたた……いたい……っ!?」


 どうして機人族のガイストが魔術を使えたのか、と過る疑問は関節を押さえられた激痛に吹き飛んでしまう。じんわりと涙がでてくる。


「やめろ、待機だ――だいじょうぶか?」


「ぅぅぅ……ひ、ひどい……」


「お前が殴りかかってくるからだ」


「だって……っ」


 殴りつけておいて殴りかかっておいてひどいも何もあったものじゃないが、ムリヤリに唇を奪われた挙句に、怒り静まらぬまま取り押さえられて、暴力の痛みで冷静にさせられて……なんだかどっと疲れてしまった。


「はぁ……もう、いい……」


 ガイストの命令で黒い人影はリリウムから離れた。そして、ガイストの隣に控える。

 リリウムはガイストに起こしてもらいながら、黒い……まるで金髪の美少女ガイストの影が実体化したかのような生物を見やる。


「なんで、機人族のガイストが、……魔術を、つかえるの……?」


「きさまの魔力を奪った。魔闘術は触れているものの魔力の流れを自在に制御できる技だ。オレに魔闘術を教えた異邦人はチャクラなどと言っていたが、全身に存在する魔力の集合点のようなものがあり、チャクラを基点に魔力の流れを回転させることで魔闘術を発動させる。魔力を与えたり奪ったりといった仕業は応用のひとつに過ぎない」


 運動や格闘技は専門外なので詳しい原理はさっぱりわからないが、魔闘術は魔力に影響を与える技巧テクニックのようだ。だとするならば……魔力の操作に異常を持つ過適性症候群にも効果はある、かもしれない。


「魔闘術で過適性症候群をコントロールすれば暴発させずに魔術を発動できる。それに過適性症候群は大量の魔力を保有する証。強力無比な魔術師になれる、と言うことだ」


 ガイストの説明を聞いても、リリウムははいそうですねと素直に頷けるわけがなかった。十年以上もリリウムは魔術を使ってこなかったし、使えない人生を受け入れていたのだ。


「そんなの……いきなり、言われても……」


 ガイストはリリウムの掌をしっかりと包み込む。


「魔術を使ってみろ。オレが力になる」


「で、でも……っ」


 実現できるなら夢のような話だけど――そんな簡単にできるならこの世界でも手法は確立されている。そうなんだ、と鵜呑みにできる話じゃない。それに、心が魔術を拒否し続けている。また同じことが起きるんじゃないかと怖れている。


 ガイストを本当に信用してもいいのか? 最先端の医療技術を学んだ医者の言っていたことでなく、ワゴンセールで購入した原価割れの古代の戦士の言葉を真に受けるのか?

 天地がひっくり返っても信じるわけない。理性的に考えて信じるわけない……。ガイストが間違っていたら塵芥となって消し飛ぶのはリリウムだ。


「ガ、ガイスト……」


「力になると言った。決めるのはきさまだ」


 ガイストの言葉は真実かわからない。

 でも、疲弊して腐りきっていたリリウムの世話を一生懸命に焼いてくれたのは誰か。久しく忘れていた優しさを態度で示してくれたのはガイストだ。そう思うと頑なな心が和らいだ。


 試験に不合格になれば何もかも終わりなんだから……いまここで何もしなかったら、あとで後悔するのかな……。

 塵芥となって寸秒を後悔するのか、レイヴンブランドの囚われて数十年を後悔するのか、――それとも。悩んだ末にリリウムは決めた。


 すぅ、はぁ、と深呼吸をして気持ちを整える。小さいころに失敗した一番簡単な魔術を思いだす。


「…………っ、……ら、……光よライト……っ」


 リリウムは魔術を唱えた。次の瞬間に引き起こされるであろう魔術の暴発に怯えて、ぎゅっと瞼を閉じた。真っ白な光が瞼越しに広がっていくのがわかった。


 ……。

 ……………。

 しかし、一向に光が見えるばかりで魔術の暴発は起きなかった。恐る恐る、目を開いた。


 リリウムとガイストの頭上には一抱えほどの白い光球が浮かんでいた。かなり大きめの光の基礎の魔術である。


「わ、……私が……つくった、の……?」


「そうだ。いまはオレがいないと駄目だが、魔闘術を完全にマスターすれば魔術をひとりで使うこともできるだろう」


 頭上でまばゆい光を放つ光球を見上げながら、信じられない気持ちでいっぱいだった。それでも夢じゃない。結果は目の前に存在している。


「……ナタンと戦うまでに……、魔術、つかえるようになる……かな……」


「きさまの努力次第だ」


 リリウムの頭にはナタンとの戦いを想定した新しい戦術が次々と思い浮かんでいた。試験までの時間は短い。魔闘術の訓練といままで手をつけたこともない魔術の勉強を考慮しないといけない。戦術に合わせてオスクリダットの改修も必要だ。


 めまぐるしく考えを巡らせ始めたリリウム。ガイストは思案するリリウムの様子を優しく見守っていた。

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